勿論ソシュールは、記号同士の関係が理論的に重要であるということを強調している。彼は、また次のように記している。‘通常、我々は自分自身を単一の言語記号により表現せず、記号のグループで表現する。その記号グループは、それら自身が記号であるような複合体に組織される’(Saussure 1983, 127; Saussure 1974, 128)。しかし、実際には記号の1次的な例として、個々の単語を扱っている。思考や伝達システムは、孤立した記号よりむしろ談話(discourse)に依存する。ソシュールが言語についてその使用法より言語システムに注目したことは、彼の枠組みの中では談話が無視されることを意味している。記号の結合体は単に、システムが呈示する文法的な可能性と認識されていた。これはソシュール流の枠組みにおける鍵となる特徴であり、これにより何人かの理論家は‘談話’を重視することに賛成し記号論を放棄することになった。一方、他の理論家はもっと社会指向の記号論を再定式化することに努力している(例えば、Hodge & Kress 1988)。しかし、これは構造分析には、価値がないといっているのではない。分析家たちは物語や映画やテレビ編集の形式研究に従事しており、それらは構造主義流の原理に基づいている。テクスト分析に興味のある人はこれらの原理を知っているということは依然重要である。構造主義者は、テクストを統語的構造として研究する。(テクストが言葉で記述されていようが、非言語的であろうが)テクストの統語分析はその構造と部分間の関係を研究することを含む。構造主義流の記号主義者はテクストの中の基本的な構成部分(segment) −つまりその統語体− を明確にしようとする。統語的関係を研究することはテクストの生産や解釈の下に潜む慣習や(例えば言語の文法のような)‘組み合わせの規則’を明確にする。テクストの中で、他のものでなくある統語的構造を使うということは、意味に影響する。
多分統語的構造として最も広まっている形式であり構造主義流の記号論的研究の主流をなす物語(narrative)を議論する前に、他の統語的形式も存在するのだということを思い出しておくのも価値がある。物語は逐次的(そして因果的)関係(例えば、映画やテレビの物語の順序)であるが、空間的関係に基づく統語的形式(例えば、ポスターや写真における合成画面であり、それは並置を介して作用する)や(説明や論議のような)概念的関係に基づく統語的形式がある。物語、記述、説明や証明の様態の違いははっきりしていない((Brooks & Warren 1972, 44))。多くのテクストは一つ以上の統語的構造を含んでいるが、その中の一つが支配的となる。
説明(Exposition)は、論議や記述の概念的構造に依存している。論議(argument)の統語的構造についての有意義な議論が(マスメディアに関連して)、Tolson (1996)に見出される。簡単に言えば、論議の構造は逐次的でありかつ階層的である。それは次の3つの基本的要素を含む;
英語における、説明的な散文に関する習慣は次のように列挙される:‘明確に定義された要旨、序文、説明された趣旨を余分なことは除いてすべて説明する主文、ある部分と次のところを連結する段落および読者に何が議論されたかを知らせる結論...そこでは調和を乱す枝葉末節は許されない’(R B Kaplan & S Ostler, Swales 1990, 65で述べられている)。この構造的な習慣は理論家によって論文に関する‘女性的な’様態よりも‘男性的な’な様態と結び付けられている(Goodman 1990; Easthope 1990)。男性的様態は‘堅固な’、順序だてたかつ論理的な論法を伴う線形的な構造を意味するために保持される。そしてその論法は、後戻りやわき道にそれることなしに‘主張点’に導く。それらは著者を学術的批判から守ろうとする‘守備的’構造と見ることができる。このように、これらの構造は論文の‘男性的’様態を支援し、‘知ることについての女性の方法’を排除する傾向にある。そのような慣習を性別に関する偏見に結び付けなくても、それらが談話(論文も含む)のある様態を促進し、他のものを退けるのは明らかである。
Anthony Easthopeが紋切り型の‘男性的’として特徴付けたものの一つが、テクストの継ぎ目のない一体性への関心である((Easthope 1990))。一般に、公式文書は略式の文書よりも明らかに‘未解決になっているもの’が少ない傾向にある。少なくとも実存主義者にとっては経験の解釈にはつねに未解決なものがあるが、説明的な文書においては‘未解決なもの’は‘不適切’であると考えられている;文体上に継ぎ目がなく、調和しておりそして首尾一貫していることが期待されている。著述の教師は‘完成された作品では‥‥、つまらない足場は除去される’と強調する((Murray 1978, 90-1)。もう一人の著者は、これについて次のように注意している:‘継ぎ目は現れない(ことを希望している)’((Smith 1982, 2))。継ぎ目がないということは、特に科学では優先順位が高い:‘科学的な論文は、完成され推敲された作品である’((Hagstrom 1965, 31)。密接に結びついている構造は議論を‘首尾一貫’したものにし、その意味を強化する。学術的なテクストが整然としていることは、それらが表現する主張が永続的な性質を持つことを誤って示唆するかもしれない。
序文、主文および結論という基本的な三つの部分は嘲笑的な忠告の中で風刺されている:‘最初に言おうとしていることを言え、次にそれを言え、それからまた言ったことを言え’。この定式化は学術的な書物の曖昧さを隠す一方、その構造的な議論の終結を際立たせる。構造的議論の終結は‘ことは終わった’ −テクストは完成した− ことを示唆する。完全に統合された(seamless:継ぎ目のない)また連続した構造はカバーされた領域、答えられた疑問に関する印象また重要なことは何も残されていないという印象を強化する。嘘であっても、議論の終結は、形式の管理を介して、その題材が重要であるということを示唆している。David Lodgeが言っているように、‘学術的な談話は与えられた主題についての最後の言葉を言うことにより、その主題について前に言われた全ての言葉に対する優位性を確定しようとするので、独白という状態を強く望んでいる’((Lodge 1987, 96))。勿論、たまたまその論文の査読で、その主題について‘徹底的に検討されている’というコメントがあったとしても、テクストは言うことができることを全て言える訳ではない;どの主題についても最初の言葉もないし、死後の言葉もない。しかし、有能な学術的な著者は、完全という幻影を作る方法を学ぶ。そして、それは読者が‘異議を申したてる(but-ing)’ことを妨害しようと試みである。通常の学術的なテクストの構造はその主題についての枠組みを作り、読者をそれらに関する解決へと導く。学術的な談話は読者を管理し、トピックを著者の目的に従属させる方法として一つの意味しかないテクストの論文を使う。そのような閉じたテクストの構造は、その完全性、順序性と明確性が世界を日常の経験という動的で流動的なものより、もっと絶対的で、客観的でもっと‘実在的’であると認識することを要求する世界を作るという著者の試みを反映していると見られている。学術的な著者は統一体として経験したことを分解し、次に印刷された言葉の使い方を工夫して、彼らの創作は継ぎ目がないものであるという印象を与えるように努める。形式的な統一体へと向かう駆動力は、実存している統一性ということの模倣と生の経験という‘真実性’を示唆している。
どの説明的な文書でも、文章上の統一性(継ぎ目なし性)は論法上の弱点や‘欠陥’を隠すかもしれない;また言葉や考えの‘自然な’流れを構築することに含まれる著者の操作を隠す。例えば科学論文の秩序正しさは、科学的探究の過程に関する誤解を招く整然とした状況を提示する。表現は常に、現実よりも整然としているように見える。文書における統一性は‘客観性’を示唆する古典的、そして‘実在主義者’の慣習である:一方古典的な職人の技量は製作者の痕跡をきわだたせ、そして −慎重に構造に注意を引く− ‘疎外’さえ採用する。Robert Mertonは科学的文書の改革に賛成し、‘真の芸術が全ての芸術の記号を隠すことにあるなら[それは古典的な慣習である]、真の科学は完成された構造とともにその足場を明らかにすることにある’ことを示唆している(Merton 1968, 70)。そのような‘可視的な構成’は、同じように歴史家の実践で推奨される(Megill & McCloskey 1987, 235)。言語学者のサピア(Edward Sapir)がいみじくも言っているように、‘全ての文法には漏れがある’(Sapir 1971, 38)。記号論を学んだ人は、何の表現でも構造の記号として、構造的な漏れ、継ぎ目や拠りどころを探索すべきであり、また否定、隠蔽また排除されたものを探すべきである。そうすることにより、テクストは‘全体の真実’を語ってくれるかもしれない。
理論家たちは、しばしば、ことばの言語とは異なり、視覚的画像は説明には適していないと主張する(例えば Peirce 1931-58, 2.291; Gombrich 1982, 138, 175)。統語体はしばしば言語中心的に純粋に、連続的でありまたは時間的な‘連鎖’として定義されている。しかし、空間的関係もまた統語的である。美術や写真を考えると、テレビや映画やワールドワイドウェブのような媒体における時間的な統語体と並んで、構造的な統語体も重要となる。原則的には、前の時点か後ろの時点かという連続的な統語的関係とはちがって、空間的統語関係は以下のものを含む:
そのような構造的関係は、意味論的に中立ではない。George LakoffとMark Johnsonは基礎的な‘方位を用いた隠喩’が、どのように日常的にある文化のキー概念と結び付けられるかを示した(Lakoff & Johnson 1980, Chapter 4)。Gunther KressとTheo van Leeuwenは、画像的なテクストにおけるキーとなる3つの空間的次元を明確にした:左/右、頂/底そして中心/周辺(Kress & van Leeuwen 1996; Kress & van Leeuwen 1998。
水平軸と垂直軸は、絵画的な表現の中立的な次元ではない。西欧文明においては、書くことや読むことは水平軸に沿って左から右へ進むので(英語ではそうであるが、アラビア語やヘブライ語や中国語では異なる)、そのような読み/書き文明での絵を読む‘予め規定されている方向’は(もし、顕著な特徴により注意がそらされなければ)、一般的に同じ方向になる。これは雑誌や新聞のように、書かれたテクストに絵が埋め込まれている場合にとくにありそうなことである。このように、画像の左手と右手の要素には潜在的に順序という意味 −‘時間的に前’と‘時間的に後’という意味− がある。Kressとvan Leeuwenは、右手の要素と左手の要素を‘与えられているもの(the Given)’と‘新しいもの(the New)’という、言語的な概念に関連付けている。彼らは、次のように主張している。絵の中で、いくつかの要素を中心より左に置き、他のものを中心より右に置くというように水平軸に意味をもたせる場合には、左側は‘“すでに与えられた”側であり、読者がすでに知っていると仮定されるなにものか’であり、馴染みがあり、確立され、同意された出発点である。また常識的であり、仮定されており自明ななにものかである。一方、右側は新しい側である。‘あるものが新しいということは、それがまだ知られていないか、見る人にとっては同意されていないなにものかである、ことを意味する。そして、見る人はそれに特別な注意を払わなければならない’ −つまり、より驚嘆すべき、問題を提起するまたは論争の種となるなにものかである(Kress & van Leeuwen 1996, 186-192; Kress & van Leeuwen 1998, 189-193Kress & van Leeuwen 1996,186-192; Kress & van Leeuwen 1998,189-193)。与えられたもの(The Given)と新しいもの(The New)は、Halliday流の言語学にその起源がある(Halliday 1994)。
垂直軸はまた共示を伴う。LakoffとJohnsonは、経験を組み立てるのに方向を用いた隠喩が、基礎的な重要性を持つ、と主張して、(英語の使い方では)上(up)はもっと(more)を、下(down)は少ない(less)を連想させると認めている。彼らはその関連を次のように概観している:
ある記号表現が、他のものより‘より高い’ところに位置することは空間的な関係だけでなく、それらが表現する意味内容との関連でそれを評価するものでもある。Erving Goffmanの小冊子Gender Advertisements(1979)は、雑誌の広告での男性と女性の容姿の描き方に触れている。それはシステム的でなく、また彼の意見のいくつかがその後の経験的な研究で支持されているに過ぎないが、視覚的社会学の古典として名高い。多分、これらの注釈の文脈であるが、彼の観察の中で最も適切なのは次のようなことである。この広告の中で、‘男性は女性より高いところへ配置されており’、それは社会では、女性が男性に従属していることを、象徴的に反映している(Goffman 1979, 43)。Kressとvan Leeuwenは頂点と底に関する共示に関する、彼ら自身の推測に基づく地図を提案し、像が垂直軸に沿って構築されているところでは、上部と下部はそれぞれ‘理想’と‘現実’の間の対立を表現している、と主張している。彼らは、絵画のレイアウトにおける下の部分は、より‘実際的’であり、実践的または実際的な詳細に関連する。一方、上部は抽象的、または汎用的な可能性に関する(それぞれ‘特定/汎用’、‘局所/全体’などの対立に対応する)。例えば、多くの西欧の印刷された広告では、‘上の部分は‥‥、我々に“あるかもしれないこと”を見せる;下の部分は、より教育的また実践的な傾向があり、我々に“存在すること”を示してくれる(Kress & van Leeuwen 1996, 193-201; Kress & van Leeuwen 1998, 193-195)。
Kressとvan Leeuwenにより議論された第三の主要な空間的次元は中心と周辺である。いくつかの視覚的画像の構成は、主として左−右または頂点−底辺の構造でなく、支配的な中心と周辺に基づいている。‘あるものが中心として表されることは、それが情報の中核として表現され、他の全ての要素は、ある意味で従属していることを意味している。周辺は、これらの補助的な従属要素である’(Kress & van Leeuwen 1996, 206; Kress & van Leeuwen 1998, 196-198)。これは、図 (figure)と地(ground)という、基礎的な認識区分と関係してくる(広告と関連付けた Langholz Leymore 1975, 37ff を参照のこと)。選択的な認識は、いくつかの特徴を‘目立たせ(foregrounding)’、ほかのものを‘目立たなくさせる(backgrounding)’。認識における‘図’と‘地’という概念は、ゲシュタルト心理学者のお陰である:特にMax Wertheimer(1880-1943)、Wolfgang Kohler(1887-1967)、Kurt Koffka(1886-1941)。視覚的画像と出会うと、我々は支配的な形状(明確な輪郭をもった‘図’)を、現在の関心が‘背景’(または‘地’)へ追放したことがらから分離したがる。視覚的な画像では、図は中心に配置される傾向にある。
特定の視覚的形式 −印刷された視覚的広告の形式− では、例えば小道具、道具立ておよび俳優などの内容に関する主要な要素の間の関係(Millum 1975, 88ff; see also Langholz Leymore 1975, 64ff and Leiss et al. 1990, 230ff)、および見出し、挿絵、広告文そして言葉/標語といった、主要な相の間の関係が調査されている (Millum 1975, 83)。
空間的から連続的な統語体にテーマを転換すると、説話(narrative)が対象となる(既に述べたように、それでさえ左/右の空間的構造の下にあるかもしれない)。何人かの批評家は、説話と非説話の差異は媒体間の差異と関係すると主張し、個々の図形、絵画や写真を非説話形式の例として挙げている;説話は媒体と独立した‘深い構造’であると、主張する人もいる(Stern 1998, 5)。説話理論(またはnarratology)は、それ自身重要な多分野領域であるが、‘説話の分析は記号論の重要な分野である’にもかかわらず、記号論的視点から組み立てられていない(Culler 1981, 186)。記号論的説話理論は、どの様態の説話にも関心を持つ −文学または非文学、虚構または非虚構、言葉または視覚的− 、しかし最小の説話単位と、(ある理論家は‘物語の文法’と呼ぶ)‘すじの文法’に焦点をあてる傾向にある。それはロシア・フォルマリズムのVladimir Propと、フランスの人類学者C・レヴィ=ストロースの伝統を引き継いでいる。
Christian Metzは、‘説話は始まりと終りを持っている、一方、事実は,、世界の残りから同時にそれを区別する’と述べている(Metz 1974, 17)。世界には‘できごと(event)’はなく、説話的形式が出来事を生み出すために必要とされる。多分、もっとも基礎的な統語体は、平衡−分裂−平衡という三つの相からなる線形な時間のモデルであり、物語の始まり、中間、結末に対応する‘連鎖’である(または、Philip Larkinが言っているように、古典的小説の公式を記述することである:‘始まり、混乱(muddle)そして結末’;著者の強調)。順序正しいアリストテレス流の説話形式では、因果関係とゴールが物語り(時系列的な出来事)を、筋立て(plot)に変える:始まりの出来事が中間のそれの原因となり、中間の出来事がゴールのそれの原因となる。これは、古典的なハリウッド映画の基本公式であり、そこでは物語の流れが何にも増して優先権を持つ。映画製作者のジーン・ラック・ゴダードは、映画が始まり、中間、結末を持つのは好きであるが、必ずしもその順序ではないと宣言している;‘古典的な’(写実主義者の)説話では、常にその順序であり、連続性と終りを有している。ロラン・バルトは、説話は基本的に移植可能 −‘国際的、歴史横断的(transhistorical)、文明横断的(transcultural)’に− であると主張している (Barthes 1977, 79)。そして、Barbara Sternは‘筋立て(プロット)は二つの時間順序を交信できるどんな媒体(映画、ダンス、オペラ、連続漫画、相互交信可能メディア等)でも実現され、そして、一つの媒体から他のものへ変換されうる’とコメントしている(Stern 1998, 9)。何人かの研究者は説話の移植可能性が、それを他のものと異なるものとしている主張し、そのような人は、説話に‘超(メタ)コード’という特権を認めている。
Andrew Tolsonは、説話が決り文句からなる限り、‘説話は独特なことや変わったことを、可能性という馴染みのあるまた通常のパターンにしてしまう’と記している(Tolson 1996, 43)。それらは構造と首尾一貫性を持っている。その点では、それらは、日常生活の馴染みのあるできごとに対する図式(スキーマschemas)に似ている。勿論、‘出来事’を構成するものは、それ自身構築物である:‘実在’は、離散的な時間的単位に、客観的には還元できない;‘出来事’と見なされるものは、解釈者の目的により決定される。しかし、経験を説話に変えることが、意味を生成する人間の原動力の、基礎的な特徴のように思われる。何人かの研究者は、‘人間は基本的に、彼ら自身とかれらの生を、説話の用語で経験する語り部である‘と主張している(Burr 1995, 137)。
首尾一貫性は、指示物との対応を保証するものではない。説話の形式それ自身が、独自の内容を持っている;媒体はメッセージである。説話は、できごとを表現するための、問題がなく、自然のように見える自動的な選択である。Robert HodgeとGunter Kressは、馴染みのある説話の構造を用いることは、‘説話の内容、それ自身を自然的なものとする’ことに貢献すると主張している(Hodge & Kress 1988, 230)。説話が、予測可能な平衡状態への回帰で終わる場合、これは説話の終結(closure)と言われる。終結は、しばしば対立の解決としてもたらされる。多くの研究者によって、構造的な終結は、優先的な読み方を強化するもの、HodgeとKressの用語では、現状を強化するものとして認められている。ジャック・ラカンの原理を適用する研究者によれば、(文学や映画などの主要な形式での)慣習的な説話はまた、主体の構成においてある役割を果たす。テクストでは、説話は統一と首尾一貫性を示すように見える一方で、主体は、(部分的に人格の確認を介して)終結の意味に関与してくる。‘説話の首尾一貫性は、逆に主体の首尾一貫性を再び銘記する’、そして、それは言語という象徴的な領域よりも自我がより固定的であり流動性が少ない、心象(Imaginary)という言語以前の領域に主体を戻す(Nichols 1981, 78)。
職業的歴史家の著述スタイルは、19世紀の‘写実主義的’小説家の何でも知っている語り部と流暢な説話の変異体を、伝統的に含んでいる。歴史家は断片的な‘典拠’しか有していないが、‘そのスタイルは何でも知っているという印象を保持しながら、明らかに空白と分かるところを飛び越えて、全体的でかつ連続した物語を作るよう圧力をかける’(Megill & McCloskey 1987, 226)。説話は、そこにない連続性を暗示する。知に関するフーコーのポスト構造主義的歴史は、それに代わって、‘決裂’、‘不連続’そして‘分断’を主張した点で革新的である (Foucault 1970)。形式の内容(The Content of the Form)というタイトルの彼の本での歴史に関する探求を熟考して、Hayden Whiteは‘説話は単に中立的な漫然とした形式ではなく...明白な思想的、また時には政治的暗示さえ伴う、存在論的また知の体系の選択を伴う’(White 1987, ix)。彼は‘現実の人生は慣習的な、よくできたまたは寓話的物語の中に見られる首尾一貫性と合致するその種の形式的首尾一貫性を持つものとしては決して表現できない’と加えている(同上)。
構造主義記号論者による隠された構造的パターンの機能的探索は、最初は全く異なって見える複数の説話における共通点に焦点をあてる。バルトが述べているように、構造主義的分析にとって‘最初にすべきことは説話を分解しそして...最小の単位を決定することである..。意味は、その単位の基準でなければならない:物語のある部分を単位にするのは、その機能的性質である −ここで“機能”という名称は、さしあたり、これらの最初の単位に帰せられる’(Barthes 1977, 88)。非常に影響力のある本、民話の形態論(The Morphology of the Folk Tale)で、Vladmir Proppは100の妖精の話を、約30の‘機能’で解釈している。‘機能は行動の経過に対する意味作用という観点から決定される人物の行為として理解される’(Propp 1928, 21)。そのような機能は、行動の基本単位である。Proppにより分析された民話は、すべて同じ基本方式に基づいている:
彼は魔法の力をもつもの(ヒキガエル、魔女、あごひげの老人、他)に出会い、(思いやりなどを)試験されたのち、(指輪、馬、マント、ライオンなどの)魔法の力をもつ代理人(agent)を与えられる。それらは彼が厳しい試練をうまく通り抜けるのを、可能にする。
そして当然、彼は悪者に出会い、決定的な戦いに巻き込まれていく。しかし、逆説的に、中心的に思われるこのエピソードは置き換えられないわけでない。他の筋道があり、そこでは一連の仕事や苦心の前に、彼の代行者の力を借りて、最終的にはそれを適切に解決できる..ことを知る。
物語の後半部分は、殆ど一連の遅延素子となる:帰郷の旅路にあるヒーローの追跡、偽ヒーローの侵入、偽ヒーローの正体が露見そしてヒーロー自身の究極の変貌、結婚そして/または即位。(Jameson 1972, 65-6)
バルトが記しているように構造主義者は、人間の代理人を‘心理的な要素’の用語で定義するのを避けてきた。そして関係者は、分析者によって‘性格’として‘彼らがなんであるか’という用語でなく‘彼らがなにをするか’という用語で定義してきた(Barthes 1977, 106)。Proppは、7つの役割を挙げている:悪者、提供者、支援者、探される人(the sought for person)(と彼女の父親)、送り出す人、ヒーローと偽ヒーロー、そして物語の中でのいろいろな‘機能’の輪郭を以下のように描いてみせた:
1 初期状態 ヒーローの家族のメンバーが紹介される。
2 失踪 家族の一人が家庭から失踪する。
3 制止 制止がヒーローに対して出される。
4 違反 制止が破られる。
5 偵察 悪役が偵察を企てる。
6 伝達 悪役はかれの犠牲者に関する情報を受け取る。
7 わるだくみ 悪役は犠牲者をだまそうと企む。
8 共犯 犠牲者はごまかしに屈服し、はからずも彼の敵を助けてしまう。
9 悪事 悪者は家族のメンバーを害するかまたは傷つけてしまう。
10 欠乏 家族の一人からあるものがなくなるかをか、またはあるものを欲しがる。
11 調停 災難が知られる。ヒーローが派遣される。
12 対応行動 捜索者は、対応行動に同意することを決定する。
13 旅立ち ヒーローは出発する。
14 提供者の第1の機能 ヒーローは試され、魔法の力をもつ代理人を、提供者または支援者から授かる。
15 ヒーローの反応 ヒーローは、未来の提供者の行為に反応する。
16 魔法の力をもつ代理人の受け取り ヒーローは魔法の力をもつ代理人を使用できるようになる。
17 空間的な移動 ヒーローは捜索の妨害に会う。
18 闘争 ヒーローと悪者は直接の戦いに加わる。
19 汚名をきせる ヒーローは汚名を着せられる。
20 勝利 悪者は打ち負かされる。
21 一掃 最初の災難や喪失は、一掃される。
22 帰還 ヒーローが帰還する。
23 追跡 追撃(chase):ヒーローは追跡される。
24 救助 追跡からのヒーローの救助
25 認識されないこと ヒーローは認められないで、家族のもとへまたは他の国に到着する。
26 無体な要求 偽のヒーローが無体な要求を出す。
27 難しい職務 難しい職務がヒーローに与えられる。
28 解決 その仕事は解決される。
29 認知 ヒーローは認知される。
30 発覚 偽のヒーローまたは悪者が発覚する。
31 変容 ヒーローは、新しい外観が与えられる。
32 処罰 悪者は罰せられる。
33 結婚 ヒーローは結婚し、王位につく。
分析のこの形式は、個々のテクストが何を意味するかよりも、テクストがどのように意味するかに関心をもつことから、個別のテクストの特性を軽視することになる。それは、‘還元的’戦略と定義され、何人かの文学研究者はそれを適用するのは、次のような危険があると主張している。‘ロシアの民話と、特別機動隊の最新の逸話(The Sweeny)、スターウォーズまたはレイモンド・チャンドラーの小説との区別がつかなくなる’(Woollacott 1982, 96)。バルトでさえ次のような記している。‘説話の初期の分析は、世界中のすべての物語を、単一の構造で調べることを試みていた’、そして、これは‘テクストがその差異を失う、というまったく好ましくない’仕事であった(Barthes 1974, 3)。結局差異こそが、記号とテクストを確認するものである。この反対に対して、Fredric Jamesonはその方法は、埋め合わせとなる特徴を有していると示唆している。例えば、筋立ての文法に関する知識は、‘ある世代やある時代の作品を与えられたモデル(または基本的な筋立ての範列)という言葉で、我々が調べることができるようにする。それから、その作品は変換され、検討し尽くされ、あたらしいものに取って代わられまで、可能な限り多くの方法で分節される’(Jameson 1972, 124)。
Proppと異なり、C・レヴィ=ストロースとグレマスは、説話の構造の理解を、その下にある対立においた。C・レヴィ=ストロースは、ある文明の神話は自然対文明に関連した対立の上に構築された、限られた数の基本的なテーマの変形と見ていた。どの神話も、基本構造に還元できる。彼は次のように記している。‘よく知られた物語や神話の編集物は、莫大な量となる。しかし、沢山の役割を、いくつかの基本的な機能に抽象化できれば、物語や神話は、数個の簡単な型に還元できるだろう’(Levi-Strauss 1972, 203-204)。神話は、人々が今、どんな世界に生きているかを知る助けとなる。C・レヴィ=ストロースは、神話を、人類そして自然と我々の関係、とくに我々は動物からどのように分かれてきたかということに関する、祖先からのメッセージと見ていた。しかし、意味は個々の説話の中では見出すことができず、与えられた文化に共通するパターンの中に見出される。神話は、ただシステムの部品として理解される。Edmund Leachは、それを情報理論と関連付けることにより、より明確にしている(Leach 1970, 59)。呼んでも聞こえにくい所にいる人に、メッセージを送る場合を想像してみよう。いろいろな種類のノイズの妨害に対処できるように、充分な‘冗長度’を持たせるため、言葉を変えながら、何度もメッセージを送る必要があるかもしれない。あるときは、最初に入っていた要素がいくつか欠けているかもしれないが、聞こえたことをいろいろつき合わせていくと、メッセージはよりはっきりする。それを見るほかの方法は、それぞれの神話の物語を、音楽の楽譜での異なる楽器のパートと見なすことであり、それこそがC・レヴィ=ストロースが追い求めた、つかまえどころない‘楽譜’である。かれは神話の形式を、一種の言語として扱った。神話の構造を‘大まかな構成単位’または‘神話素(mythemes)’に分解する初期の方法は‘物語を可能な限り短い文に分解する’ことを含んでいたと報告している(Levi-Strauss 1972, 211)。この方法は、言語における最小の意味単位である‘形態素(morpheme)’との類似に基づいている。神話の構造を説明するため、C・レヴィ=ストロースは各神話素を神話における機能で分類し、最終的には、種々の機能を互いに関連付けている。彼は、神話素の可能な組み合わせは、それ自身心の深層構造である、目に見えない汎用文法に支配されていると見ていた。‘C・レヴィ=ストロースにとっては、神話の研究はフロイドにとっての(無意識への“近道”である)夢の研究であった’(Wiseman & Groves 2000, 134)。
レビー・ストロウス流の方法の良い例が、Victor Larruciaによって‘赤頭巾ちゃん(Little Red Riding-Hood)’(17世紀後半のシャルル・ペロー原作)に関する彼自身の分析の中で提示されている (Larrucia 1975)。この方法によれば、物語はいくつかの列に要約され、それぞれはある単一の機能またはテーマに対応している。(番号によって示される)元の順序は表を行から行に読むと保存されている。
1 祖母が病気になったので、母親が祖母に食べ物を作る | 2 赤頭巾ちゃん(LRRH)は母親の言い付けで森へ出かける | 3 LRRHは友達(狼)に会い、おしゃべりをする | |
4 木こりがいたので、狼はLRRHに話しかける | 5 LRRHは狼の言葉に従い、祖母の家への遠回りの道をいく | 6 祖母はLRRH(実は狼)を家に入れる | 7 狼は祖母を食べてしまう |
8 LRRHは祖母(実は狼)と会う | |||
9 LRRHは祖母のいい付けに従ってベッドに入る | 10 LRRHは祖母(実は狼)に質問をする | 11 狼はLRRHを食べてしまう | |
これらの列がなにを表すかについての解説者の示唆を提示せず、読者が自分で推測するようにこのままにしておく。興味があるならば、参考文献を見てください(Larrucia 1975; Silverman & Torode 1980, 314ff)。
リトアニア人の構造主義記号論者、アルグリダス・グレマアスは、説話の今までに知られている構造を生成できる、説話の文法を提案した(Greimas 1983; Greimas 1987)。Proppの七つの規則を‘記号論的に還元’した結果、彼は説話の統語体として三つの型を明らかにした:履行の統語体(syntagms performanciels) −仕事と闘争;契約の統語体(syntagms contractuals) −契約の成立と破棄;分裂の統語体(syntagms disjonctionnels) −出発と到着(Greimas 1987; Culler 1975, 213; Hawkes 1977, 94)。グレマスは、三つの基本的な二項対立が全ての説話の主題、行為そして役割の型(それらをまとめて‘行為項(actants)’と呼んでいる)の底辺にある、と主張している。つまり:主体/対象(Proppのヒーローと探される人)、送り手/受け手(Proppの派遣する人とヒーロー −再び)、支援者/敵対者(Proppの支援者と提供者の融合、および敵対者と偽のヒーロー) −グレマスが、ヒーローは主体であり、受け手であると主張していることに留意する必要がある。主体は探す人である;対象は探される人である。送り手は対象を送り、受け手はそのあて先である。支援者は行為を補助し、敵対者はそれを妨害する。彼は、主語−動詞−目的語という文章の構造から外挿し、物語の構造の土台として、基本的かつ基礎となる‘行為項モデル’を提案した。彼は、次のように主張している。古典的な統語法では、‘機能’は言葉によって演じられる役割である −主体は行為を行う人であり、対象は‘それを受ける人’である(Jameson 1972, 124)。Terence Hawkesは、グレマスのモデルを次のように要約している:説話は次のような順序を採用している。‘その関係が、敵対かまたはその逆である二つの行為項;そして表面レベルでは、この関係は分裂と連結、分離と統合、闘争と和解などという、基本的な行為を生む。ある実体 −特性、対象− の表面上で、ある行為項からほかの行為項への転移を含むあるものから、他のものへの移動は、説話の真髄を構成する’(Hawkes 1977, 90)。グレマスにとっては、このように種々の物語は、共通の‘文法’を共有する。しかし、Jonathan Cullerのような批判者は、グレマスの方法論の有効性、彼のモデルの実用性や有効性に納得していない(Culler 1975, 213-214, 223-224)。
ブルガリア人のTzvetan Todorovは、グレマスのように、彼の本Grammaire du Decameron(1969 デカメロンの文法?) の中で、説話の‘文法’をボッカチオのデカメロン(1353)の物語を基に提案している。Todorovにとっては、説話の基本的な統語単位は(XはYに恋するというような)叙述であり、それは物語の流れへとまとめられる。叙述は属性(形容詞)や動作(動詞)を伴う人物の集合(名詞)によって形成される。デカメロンでは属性は状態、内面の特性および外部条件で構成される;三つの基本的行為があった(‘状態を変えること’、‘法律を犯すこと’そして‘罰すること’)。前後関係は、時間的関係、論理的関係そして空間的関係に基づいている。デカメロンのそれぞれの物語は、一種の派生した文で構成され、これらの単位をいろいろな方法で組み合わせている(Hawkes 1977, 95-99)(Hawkes 1977,95-99)。
ウンベルト・エーコもまた、もっとポピュラーな文脈で、同一作家の限定した(ジェームズ・ボンドシリーズに関する)資料に着目して、説話の基本的な体系を導いている(映画でも殆ど同じことができるだろう)。
Proppやグレマスと違って、エーコは構造分析の還元的定式化を越え、文学のより広い文脈と観念的な談話を結びつけようとしている(Woollacott 1982, 96-7)(Woollacott 1982,96-7)。
統語分析は、言葉のテクストだけでなく、オーディオ・ヴィジュアルのそれにも適用できる。映画やテレビでは、統語分析は、フレーム(一コマ:frame)、ショット(一続きの画面:shot)、シーン(場面:scene)またはシーケンス(ひとかたまりのシーン:sequence)を、互いに関係づける方法を含む(これらは、映画理論における分析の標準的レベルである)。最下位のレベルは、個々のフレームである。映画は一秒間に24フレームの速度で映写されるので、観客は決して個別のフレームには気が付かないが、重要なフレームは分析家によって分離される。次の上のレベルでは、ショットは‘一回の撮影’(single take)であり、カメラの移動も含むフレームの編集されない順序である。ショットは、カット(画面の突然の切り替え)または他への移り変わりで終了する。シーンは、同じ場所や時間でのショットの一つ以上の集合により構成される。シーケンスは、一つ以上の場所および/または時間にまたがるが、それは(‘ドラマ的な単位’を有する)論理的または主題の順序である。言語学的モデルに従って、記号学者はしばしばオーディオ・ビジュアル媒体の分析単位として、言語学で用いられている分析単位と相似なものを探すようになる。映画の記号論では、書き言葉との荒っぽい等価性が主張される:つまり、形態素(または単語)とフレーム、文章とショット、段落とシーンと、章とシーケンス(このような等価性は人によって変化する)(Lapsley & Westlake 1988, 39ffを見よ)。グラスゴー大学のメディアグループのメンバーにとっては、分析の基本単位はショットであり、カットにより境界が定められ、ショットの内ではカメラの移動は許されており音声や音楽も入る(Davis & Walton 1983b, 43)。ショットは、もっと小さい意味のある単位に(フレームより上位のレベル)に分解できるが、研究者はこれらが何であるかということに関しては意見が一致していない。シーケンスの上位には、他の説話単位が設定される。
Christian Metzは、物語の映画の精巧な統語上の分類を提案している(Metz 1974, Chapter 5)。Metzにとっては、これらの統語体は言葉の言語と相似であり、物語の空間と時間を配列する方法には、8個の鍵となる映画的な統語体があると主張している。
しかし、Metzの‘grande syntagmatique(総括的統語論)’は、平易なシステムが映画に適用できるとしていない。子供のテレビジョン理解に関するHodgeとTrippの研究(1986,20)では、同じ時間(共時的)、異なる時間(通時的)、同じ空間(同じ話題)そして異なる空間(異なる話題)に存在する統語体をベースに、統語体を4種類に分割している。
*彼らは、これらは全て連続的統語体(単一または連続するショット)であるが、非連続的統語体(他のものとは分離された、関連するショット)もまた存在すると付け加えている。
フレーム、ショット、シーンおよびシーケンスの間の四重区分以外では、映画研究者の理解の枠組みは大きく異なる。少なくとも、この意味では映画の‘言語’は存在しない。