Semiotics for Beginners

        -初心者のための記号論-

        Daniel Chandler (University of Wales)


        範列分析(Paradigmatic Analysis)

         統語分析がテクストの‘表面的構造’を研究するのに対して、範列分析は、テクストの明示的な内容の下にある色々な範列(または記号表現の先在する集合)を特定しようとする。構造分析のこの視点は、それぞれ記号表現の積極的また消極的な共示(connotations)(それは、ある記号表現を他のものに優先して使用するということを通して明らかになる)、そして‘表面下にある’主題の範列(例えば公的/私的のような2項対立)の存在を含む。‘範列的関連’は記号表現間の対立と対比であり、それらの記号表現は、テクストの中で使用されている記号表現が引き出される同じ集合に所属する。

         記号学者はしばしば、特定の記号表現が特定の文脈の中で、同じような働きをする他のものに優先してなぜ使われたかということに注目する:それは、しばしば‘不在’として見られるものについてでもある。ソシュールは次のように記している。彼が‘連合’関係と呼んだものの −現在では範列関係と呼ばれているものの− 特徴は(統語関係とは対照的に)‘不在(absentia)の中で’保たれている、つまり特定のテクストから、同一の範列での代わりとなる記号表現が欠けていることにある(Saussure 1983, 122; Saussure 1974, 123)。彼はまた記号の言語システムの中での価値はそうでないものから生じる、と主張している(Saussure 1983, 115; Saussure 1974, 117)。英語には、2種類の不在に関することわざがある:‘言わないですますこと’と‘不在によって目立つもの’である。‘言わないですます’ことは‘明らかなこと’として‘認められている’ことを仮定している。(‘事実の’範疇のような)ある論点の適用範囲に関連して、テクストの読者の‘位置付け’を助ける深い観念的な不在であり、‘我々のような人々が、その論点についてあのように考えていることにすでに同意している’ことを含んでいる。2番目の種類の不在については、テクストの中に存在する項目は慣習的な期待をあざけり、慣習的な項目を‘不在によって目だ立たせ’、思いがけない項目を‘声明’とする。これは、やはり文化的習慣に適用できる。男性は通常オフィスでスーツを着ているが、それは彼が規範に適応したに過ぎない。しかし、もしある日、彼がジーンズとTシャツを着て現れれば、それは‘声明を出した’と理解される。テキストの中の不在を分析することは、それらを除くことにより、誰の興味にかなったかを明確にすることになる。そのような分析は、どのような疑問がまだ発せられずに残っているか、ということに特別の注意を払うことになる。

         範列分析には、テクストの中で使われている記号表現と同様な環境で選択されたかもしれない不在の記号表現を比較し、そのようになされた選択の意義を考察することが含まれる。それはどのような記号レベルつまり特定の言葉、画像、音声から形式、様式や媒体の選択にまで適用できる。同じ範列からある記号表現を使用するということは、さまざまな要因たとえば技術的制限、コード(例えば範疇)、慣習、共示、形式、レトリック的な目的そして使用者自身のレパートリーに基づいている。範列関係の分析は、テクストの中での特定の項目の‘価値’を決定するのに役立つ。

         記号学者は特定の記号表現とその意義を明確にし、それによる記号表現の水準の変化が記号内容の変化に結びつくかどうかを決めるために使われる‘換入テスト(commutation test)’、に言及する。その起源は、(ロマン・ヤコブソンを含む)プラハ構造主義者によって適用された代入という言語的テストにある。ある言語において、音素とそれらの‘弁別特徴’ (例えば、有声音/無声音;有気/無気(nazalized/not nazalized))を同定するために、言葉の音韻的構造において、どの位置を変えると別の言葉になるかを言語学者は試験する。当初の換入テストは、テクスト分析というより主観的な形式へと進化している。ロラン・バルトは、換入テストはテクストの中の意味単位を範列クラスへ分類する前に、テクストの最小の意味単位に分割することに利用できる、と言っている (Barthes 1967, 48)。このテストを適用する前に、特定の記号表現が選ばれる。次に、この記号表現に対する代替が考えられる。代入の効果は、記号によって作られた意味にどの程度影響するかということで評価される。中間距離からの撮影の代わりにクローズアップを想像すること、年齢、性別、階級または人種を変えてみること、対象を置き換えてみることや写真に他の見出しをつけてみることなどを含まれる。またそこにある記号表現のうちの二つを入れ替えてみることやその関係の変更なども含むことができる。代入の意味への影響を知ることはもとの記号表現の寄与を示唆し、統語的単位を明確にすることに役立つ(Barthes 1967, III 2.3; Barthes 1985, 19-20。換入テストにより、使用された記号表現が属する集合(範列)コードを識別することができる。例えば、広告における背景(setting)を変えることにより意味が変われば、‘背景’は範列の一つとなる;背景の範列集合はそこで使用できそうすることにより意味をずらすことになる代替的記号表現すべてから構成される。パーティに日産マーチで来ることは、アルファ・ロメオで来ることとはなにか異なることを語っている。就職の面接テストにジーンズを着ることは、‘リクルート・スーツ’とは異なる意味で理解される。

         換入テストは、統語体の修正を含む四つの基本的な変換のどれをも含むかもしれない。しかし代替的な統語体を考えることそれ自体が、範列的な代入と理解できる。

        • 範列変換   
          • 代入;
          • 置き換え;
        • 統語的変換   
          • 追加;
          • 削除。

         これら四つの基本的変換過程は、認知と回想の特徴として注目されている(Allport & Postman 1945; Newcomb 1952: 88-96)。それらは、クインティリアヌス(およそ西暦35-100年)が‘正確な’言語からの‘逸脱’として、修辞的形態(または比喩)に付与した四つの一般的カテゴリーに対応している(Noth 1990, 341)。

         構造主義者は、範列的対立という関係が重要であることを強調する。多くの記号学者によって用いられている主な分析手法には、テクストや意味過程における二項または正反対な意味の対立(例えば我々/彼ら、公共的/私的)の明確化が含まれる。そのような探求は、ある種の‘二元論’に基づいている。そのような対の二つの項目を結び付けまた分離する斜線は、記号学者によって‘横線’(the bar)と呼ばれていることに注意しよう。その言葉はジャック・ラカンにより採用された用語である((Lacan 1977, 149))。

         二元論は、人間の分類能力の発達に深く根付いているように思われる。ヤコブソンとHalleは、‘2項対立は子供の最初の論理操作である’と見ている (Jakobson & Halle 1956, 60)。‘自然’には対立は存在しないが、我々が文化の研究で用いている2項対立は、経験という動的な複雑性から秩序を生成するのに役立つ。生存という最も基本的なレベルでは、‘自分の種と他、優勢なものと服従しているもの、性的に有効なものまたは有効性に欠けるもの、食用に適するものと適さないもの’を区別する必要性は、他の動物と共通している(Leach 1970, 39)。人間が区別する範囲は他の動物と共通している範囲よりずっと広い。というのは、それは言語により可能になる精巧な分類システムによって支えられているからである。英国の人類学者Sir Edmond Leachは次のように考察している。‘言葉を持たない類人猿も多分、“自分”/“他人”という対立に関するある種の感覚またそれをもっと拡張した“我々”/“彼ら”に関する感覚さえ有していると思われる。しかし、 “自然”/“超自然”(“人間”/“神”)というもっと広い対立は、言語の枠内でしか生じない...。自然/超自然(現実/想像)の区別を認識することは、人間の基本的な印である’(Leach 1982, 108-9)。

         人々は、少なくとも古典時代から2項対立の基本的な特性を信じていた。例えば、アリストテレスは形而上学(Metaphysics)の中で、主要な対立を挙げている:形式/物体、自然/非自然、能動的/受動的、全体/部分、統一/多様、前/後、そして実在/不在。しかし、そのような対立の修辞的な力はそれ単独であるのではなく他の対立と関連した分節にある。アリストテレスの物理学の中では、土、空気、火と水が対で対立していると言われている。2000年以上にわたって、これら4つの要素に基づく対立のパターンは表面的な実在の下に横たわる基礎的な構造として受け入れられてきた。

         そのような枠組みの要素はいろいろな組み合わせで現れ、部分的には体系に内在する緊張に駆動され、形を変えてきた。その要素の理論は、ロバート・ボイル(1627-91)のような科学者たちの時代が来るまで影響力を発揮し続けた。

        要素 特性 気質 体内の分泌物 器官 季節 方位 星座 惑星
        空気 熱く、湿った 楽観的(活動的で情熱的) 血液 心臓 春 南 双子座、天秤座、水瓶座 木星
        火 熱く、乾燥している 怒りっぽい(短気で気が変わりやすい) 黄疸 肝臓 夏 東 牡羊座、しし座、射手座 火星
        土 冷たくかつ乾燥している ゆううつ(要領が悪く、思い込む) 黒疸 脾臓 秋 北 牡牛座、乙女座、山羊座< 土星
        水 冷たく、湿っている 冷静(冷淡で不精) 痰 脳 冬 西 かに座、さそり座、うお座 金星

         Lyonsは‘2項対立は言語の構造を支配する最も重要な原理の一つである’と注釈している(Lyons 1977, 271)。もちろんソシュールは、記号の相似性よりも記号間の差異を強調している。反対語(または反義語)は同義語に較べて非常に実際的な機能を明らかに有している:分類(sorting)の機能である。ロマン・ヤコブソンはソシュールの研究をもとに、言語単位は2項対立のシステムにより結ばれていると提案している。そのような対立は意味の生成にとって本質的である:‘暗い’の意味は‘明るい’の意味との関係で定まる;‘形式’は‘内容’との関連なしでは想像できない。我々が対立で考える傾向は言語の中で対立が卓越していることによって決定されるのか、または言語は単に普遍的な人間の特性を反映しているのかはまだ良く分かっていない。

         我々がある文化の中でよく使っている、慣習的に関連付けられている用語は対となった‘対照’と言ったほうがより適切かもしれない。というのは、それらは常に直接的な‘反対語’であるとは限らないからである(しかし、それらを使うことはしばしば二極化の傾向を含んでいる)。‘対立’に関する種々の型を区分することができるが、多分最も重要なものは以下である:

        • 対立(論理的な‘諸々の矛盾’);互いに排他的な用語(例えば、生/死そこでは‘生きていないこと’は‘死’でしかありえない);
        • 反対語(論理的な‘相反するもの’):同じ非明示的な次元で相対的に格付けされている用語(例えば良い/悪い、‘良くない’ことは必ずしも‘悪い’ことではない)(Lyons 1977, 270ff; Langholz Leymore 1975, 7; Barthes 1985, 162ff)。

         これは基本的にデジタル的対立とアナログ的対立の違いである:デジタル的差異は‘あれか/これか’である;アナログ的差異は‘多いか/少ないか’である。英語における多くの反対語が‘形態的に関連付けられている’に注意した方が良い −つまり、ある用語はun−またはin−などの接頭辞を付けることにより否定語となる(例、formal/informal公式/非公式)。これにも拘らず、英語(多くの他の言語でも)で通常使用されている反対語の多くは、明らかに形態的に関連付けられていない((例、good/bad)(そしてより恣意的である)。英語においては、大部分の形態的に関連付けられていない反対語は比較的であり(格付け可能)、多くの形態的に関連付けられた反対語はそうでないが、このパターンには多くの例外がある。その例外には、形態的に関連づけまたは関連付けされていないものと対になる用語が含まれている(例、friendly/unfriendly友好的な/敵意をもったそしてfriendly/hostile友好的な/敵愾心のある)。正の用語と負の用語は、(good/badのような)形態的に関連付けられない反対語においてさえ、それらの共通的な順序のような役割によって区分できる −この点については後で触れる(Lyons 1977, 275-277)。形態的に関連付けられていない反対語に関しては、ジョージ・オーウェルが1949年に書いた反ユートピア小説1984年の中でシーマがウィンストンに説明しているように、論理的な必然性はない:

          美しいことそれはことばの破壊である。もちろん、大きな廃棄物は動詞と形容詞である...。それは同意語だけでない:反対語もある。結局、ある他の言葉の反対語に対する正当性はなんだろう。ある言葉はそれ自身にその反対語を含む。例えば、‘good良い’を取り上げてみよう。もし、‘good’のような単語を知っていたら、‘bad悪い’のような単語がなぜ必要だろう。‘ungood’でも同じ機能を果たすしむしろより良い。というのはそれは正確な反対語であり、他のものはそうでない。(Orwell 1989, 54)

         比較による反対語に形態的に関係しない形式を使う傾向にある理由は、そこに含まれる意味の区分を強調することにあると、John Lyonsは示唆している:“good良い”と“bad悪い”は“friendly友好的”と“unfriendly非友好的”よりも、さらに明らかに異なる語彙目録にある (Lyons 1977, 277)。‘等級付けが可能な反対語は、他の反対語よりもより強く対立という属性を明示している’と彼は付け加えている (同上, 279)。また日常の話では、我々は比較による用語をそれらが離散的な範疇であるように扱っている(同上, 278)(,278)。根拠はどうあれ、我々は‘白と黒’という分類を好むようである。

         2項対立はある文化の成員にとって‘自然’なように思われるのが、文化の一つの特徴である。(男性/女性や心/身体のような)多くの対となった概念は文化の成員にとって馴染みのあるものであり、それらが批判的な文脈では‘偽の二分法’と見られようが、毎日のコミュニケーションのためには常識的な区分のように思われる。ラディヤード・キップリングは、知っている人たちを直接的または間接的に‘Us我々’と‘Themかれら’に分ける普遍的に見られる傾向を皮肉っている(‘We and They’, Kipling 1977, 289-290):

          われわれのような感じの良いひとびとは全てわれわれだ
          そしてそのほかのすべての人は彼らだ:
          しかし道の代わりに海をわたれば、
          結局、われわれは彼らの一種として
          見られるようになるだろう(それについて想像してみよう!)!

         自分(self)/他人(other)(または主体(subject)/対象(object))の対立は、心理学上原理的なものである。ネオ・フロイト派のジャック・ラカンは‘無意識は言語のように構成されている’と1957年に書いている(‘無意識の中での手紙の主張’で)(cf. Lacan 1977, 159, 298)。心は‘他者’に関連して‘自己’を規定することにより、経験の動的な流れにある程度の恒久性をおしつける。幼児は、‘実在’の主要な領域(そこでは、不在、損失または欠如はない)では自己同一性(identity)の中心を最初は持たず、それ自身と外部世界の明確な境界が分からない。

         子供は6ヶ月から18ヶ月の間に実在から抜け出し、‘非実在的世界’に入る。そしてそれは話すことができる前である。これが、主体としての自己の確立が開始される個人的な精神領域である。視覚的像の領域では、鏡に映された自分自身を、自分と異なるものとして見分けられる他者によって知覚する。ラカンにとって、これは自分自身と他者の分裂をもたらすのではない。というのは、自己は他者によって規定されるだけでなく、逆説的であるが自己は他者でもあるからである。‘鏡象段階’とよぶ非実在の世界に関する決定的な瞬間を、彼は記述している。そのときには、自分の鏡象を見ること(そして母親から‘あれがあなたなのよ’と言われること)は、首尾一貫したそして自己管理している個人の自己同一性という強く規定された錯覚をもたらす。子供が自然という母権制の状態から文化という父権制の秩序に入ったことを、これは示している。


         子供が先在する‘記号秩序(Symbolic order)’(話し言葉という言語の社会的領域)の中で主体性を確立するにつれ、(心理的に操作できる)言語は、‘外部世界’と異なる‘内部世界’にある個人の自己という意識を育てるのを助ける。しかし、個性と自立の程度は言語の慣習という制約に依存しており、自己は比較的固定された実体というより流動的であいまいとした相対的な記号表現となる。主体性は、談話を通して動的に構築される。Emile Benvenisteは‘話し手が話の中で彼自身を“私”として指示することにより、彼自身を主体として設定することを言語は可能とする。これゆえ、“私”は他人を、“私”にとって完全に外部の存在であり、私が“君”と呼ぶとそれに応答する人また私を“君”と呼ぶ人であると設定する..。これらの用語のどれも、他がなければ考えられない;それらは補足的であり...、同時にそれらは可逆的である’(Benveniste 1971, 225)。

         記号秩序へ入ることは、フロイトの18ヶ月の孫がおこなった「行った−それそこだ」(fort-da)ゲームに関する、彼の記述で説明されるかもしれない(Beyond the Pleasure Principle,1920)。その子は、糸巻きを投げたり引き寄せたりしながら、‘fort!’(行った)と‘da’(そこだ)と言おうとしていた −それは話として可能な最短な形式である。フロイトによれば、これは母から離れることまた帰ってくることの象徴作用を表している。初歩的な統語体への範列的代入となり、反復と差異の魅力を誇示する。それが不在/存在に焦点をあてていることが、ラカンやデリダのようなポスト構造主義者を惹きつけている。我々が失くしたか失くす恐れのあるものやそれを取り戻す喜びや希望を表現している。想像界にあるという(とりわけ)想像された同一性の喪失を、それは象徴している。

         ローマン主義者は(少なくとも回顧的に)、記述されたものからの分離が大きくなっていくという子供の感覚に言及するかもしれない。彼らは一体性に関するまた普遍的な連続体のなかにあるという神秘的な感覚として、幼いときの経験を想像している詩人シェリー(1815)を繰り返す傾向にある:‘我々の感覚を子供のように鋭くしよう。われわれは、世界と自分自身に関してなんと明白で強い不安を抱いていたのだろう..。我々は、習慣的に見たり感じたりしたことを自分自身から区別しない。それらはひとつの塊を構成するように思われる’(Forman 1880, 261)。媒介がないというローマン主義者の感覚は多分、道具の使用が世界との一体性の最初の喪失を含んでいる、というルソーの理解の中に最も強く代表されている。そのようなローマン主義者の視点は、知る人と知られることの一体性を強調している。子供または幼いころの経験は、仮想的な‘無媒介状態’として、ローマン主義者によって画かれている。しかし、もっとも素朴な認識論でさえ、世界に関する我々の経験は不可避的に媒介されていることを示唆している。まさしく、自分自身と他者との分離なしには、一体性に関する(アダムとイブの)人類の堕落以前の神話へ後戻りして調べなおすことができる‘わたし’も存在することができない。
        (ルソーに関する参考書 吉岡智哉:ジャン=ジャック ルソー論、東京大学出版会(1988))

         ‘男性’と‘女性’は‘対立’ではない。しかし文化的な神話は、それらをそのように扱うように、日常的にしむける。男らしさと女らしさのイメージが文学作品の中の一連の2項対立を介していかに生成されるかということに関して、Guy Cookは簡単な例を提示している(Cook 1992, 115)。彼は、シェイクスピアのロミオとジュリエットの一場面の冒頭からの二つの引き続くせりふを例として挙げている。

        ジュリエット: もう行ってしまうの? まだ朝じゃないわ。
          あなたのおびえた耳を貫いたのは
          ナイチンゲールよ、ヒバリじゃない。
          毎晩あそこのザクロの木に止まって鳴くの。
          本当よ、ね、ナイチンゲールよ。
        ロミオ: ヒバリだった、朝の先触れだ、
          ナイチンゲールじゃない。見てごらん、ねたみ深い光が幾すじも
          東の空の雲の切れ間を縁取っている。
          夜空にまたたくともし火も燃え尽きて、朝日が
          かすみに包まれた山々の頂につま先だっている。
          立ち去って生きるか、留まって死ぬか。
           
          (ロミオとジュリエット 第三幕第五場、松岡和子訳 ちくま文庫(1996))

         Cookは次のような性差別の対立をあげている。

        女性 ジュリエット 質問 留まる 夜 庭 ナイチンゲール 死 睡眠 おびえ
        男性 ロミオ 回答 去る 昼 山の頂 ヒバリ 生 目覚め ろうそく

         そのような対立は、本を読むときや劇を見るときには透明になりがちである。反響と相似という性差別の特性は、それゆえテクストがこのように分析されると、まったく驚くべきものになる。しかし、これらの対立は純粋に分析上の構築物とは思えない。まさに、ジュリエットは音を強調し、ロミオはイメージに依存している(もうひとつの陳腐な性差別の連想)。そのような巧妙なパターンの −数え切れない変形をともなった− 無限の繰り返しにより、異性間の恋愛というような神話が生まれ、保持される。

         対となった記号表現はテクストの優先された読み方を形作る‘深層(または‘隠された’)構造’である、と構造主義的理論家によってみなされている。そのような結びつきは、テクストやコードに中で整列させられ、その結果、付加的な(男性/精神、女性/肉体などの)‘垂直な’関係は、女権拡張論者(フェミニスト)と同性愛研究者が言うように、それら固有のみせかけの結びつきを獲得する(Silverman 1983, 36; Grosz 1993, 195; Chaplin 1994, 11; Butler 1999, 17)。Kaya Silvermanが記しているように、‘文化的なコードは主要な対立と等置の周辺に組織された概念システムであり、そこでは“女性”という用語は“男性”の用語と対置して定義され、またそれぞれの用語は一群の象徴的な属性で配置される’(Silverman 1983, 36)。

         この考えは、分類体系において意味のシステムを生成する相似関係に関するC・レヴィ=ストロースの議論にさかのぼることができる。彼のような構造主義者は、2項対立は文化における‘分類体系’の基礎を形成し、基本的な有機的隠喩や換喩を構成している、と主張する。主要な2項対立は、文化の違いを越えた人間の精神の変わらないものまたは普遍的なものであると見ていた。

           我々がそれが事実だと信じているが、もし心の無意識の作用が内容に課せられた形式から構成され、またこれらの形式が −古代人や現代人、(言語で表現される象徴機能に関する研究が衝撃的に示すように)未開人や文明人− すべての人々の心に対して同じであるなら、それぞれの制度や習慣の下にある無意識の構造を把握することは、もちろんその分析が十分に行われればであるが、ほかの制度やほかの習慣に適用できる理解の原理を得るために必要かつ十分である(Levi-Strauss 1972,21)。

         C・レヴィ=ストロースは、文化的慣習の体系に関して共時的研究を行い、神話、トーテイズムや血族関係の規則などの現象に関連して、その下に潜む意味的対立を明確にしようとした。個々の神話や文化的な慣習は理解を拒み、自然と文化の関係を基本的に反映した差異と対立のシステムの一部分としてのみ意味をなす。これは、人間といろいろなほかの現象との関係に関する用語で表現できる、たとえば:動物、植物、超自然的な存在、天体、食べ物の形等々。人間の体に関するある2項的区分は普遍的であり、基本的なように思える −特に男性/女性や右/左。‘そのような自然的な対立はつねに文化的な意味が付加されている− それらは善と悪、許されたものと禁止されたものなどの原型的な象徴記号に仕立てられる’(Leach 1970,44)。C・レヴィ=ストロースは、次のように主張している。ある文化における‘相似的な思想’は、(食べられる/食べられないのような)ある対立に結びつき、それは(自国/外国のような)他の対立の‘同じような差異’に隠喩的に似ていると認識されている(Levi-Strauss 1974)。

         C・レヴィ=ストロースは、彼の分析は3段階であると報告している:

        1. 研究している現象を、二つ以上の現実的または仮想上の用語で定義する。
        2. これらの用語の可能な組み合わせの表を作る。
        3. この表をを分析の全般的な対象とする。このレベルでのみ、必然的な結びつきが見出される。最初に考察されていた経験的現象が唯一の可能な組み合わせとなり、何度か再構築されて完全なシステムがもたらされる。

         C・レヴィ=ストロースにとっては、神話は一対の対立の形で表現された、ある文化における基本的なジレンマや矛盾に関する夢のような痕跡(working-over)を表していた。神話の発展は、最初の対立対から変換されてきた対から構成される層を介した、この緊張の再構成の繰り返しから成る。これらの層は、物理的な認識に基づく分類に始まり、次第に汎用的になっていく。C・レヴィ=ストロースは、料理がいかにして自然を文化に変換させたかを示している:南米の神話は、生のものを加工されたものに対立させている (Levi-Strauss 1970)。彼は、自分の理論付けに関して、次のようにコメントしている:‘料理に関する神話のシステムを構築するために、多かれ少なかれ全て質感から導かれる用語間の対立を使わざるを得ないことがわかった:生のものと料理されたもの、新鮮なものと腐ったもの等々。分析の第2ステップでは、まだ対として対立している用語を明らかにするが、その特性は、質の論理というより形式のひとつ(空といっぱい、容器と内容、取り込むと除外する他)を含む度合いによって異なってくる’(Jameson 1972, 118-119で述べられている)。

         文化人類学の文献の主な評論の中で、C・レヴィ=ストロースは巧みにしかも挑発的に次のように宣言している。‘全体現象としての交換は、最初、食料、作られた物の全体的な交換から生じたが、もっとも高価な商品分野は女性となった’(Levi-Strauss 1969,60-1)。我々は、すでに食べ物の調理に関する彼の意見に言及した。交換という社会現象に関する彼の見方は独特である。というのは異族結婚(グループ外との結婚)そしてもっと一般的に‘異性間の関係’は、コミュニケーションの一形式であると主張しているからである(同上, 493-4)。言語、経済そして性別は −それらは間違いなく全てのコミュニケーションの基礎である− 三つの基本的な対立を有している:発信者/受信者;買い手/売り手;男性/女性(Coward & Ellis 1977, 58)。C・レヴィ=ストロースは、社会的交換は‘社会的価値’の交換を含んでいると述べている(Levi-Strauss 1969,62)。これらの主要な対立に関連した主体の位置の生産は、社会とその価値の再生産のための主要な機構と見ることができる。

         さらにC・レヴィ=ストロースは、関心を文学作品のテキスト的コードに向けた。そして、それは構造主義的テクスト分析のうちでもっとも有名なものである。言語学者ロマン・ヤコブソンと共同で、チャールズ・ボードレール(1821-1867)のソネット‘猫(Les Chats)’の分析を行った。これは語りの部分、詩の形式、意味の特徴などの対立の詳細な輪郭を含んでいる(Lane 1970, 202-221)。しばしば言及されている分析なので、その詩と英語への翻訳を読者の便宜のために掲載する。ところで、評論家は理解を助けるために、L'Erebeは‘地獄を縁取る影の領域’であり、Erebusは‘夜の兄弟’である、と記している(Lane 1970, 213)。

        Les chats Cats
        Les amoureux fervents et les savants austeres Fervent lovers and austere savants
        Aiment egalement, dans leur mure saison, Cherish alike, in their mature season,
        Les chats puissants et doux, orgueil de la maison, Cats powerful and gentle, pride of the house,
        Qui comme eux sont frileux et comme eux sedentaires. Like them they feel the cold, like them are sedentary.
           
        Amis de la science et de la volupte' Friends of science and of sensuality,
        Ils cherchent le silence et l'horreur des tenebres; They seek silence and the horror of the dark;
        L'Erebe les eut pris pour ses courriers funebres, Erebus would take them for his funereal couriers,
        S'ils pouvaient au servage incliner leur fiert・ If they'd to servitude incline their pride.
           
        Ils prennent en songeant les nobles attitudes They take on when dreaming the noble postures
        Des grands sphinx allonges au fond des solitudes, Of great sphinxes stretched out in the depths of solitude,
        Qui semblent s'endormir dans un reve sans fin; Seeming to sleep in a dream without end;
           
        Leurs reins feconds sont pleins d'etincelles magiques, Their fecund loins are full of magic sparks,
        Et des parcelles d'or, ainsi qu'un sable fin, And particles of gold, as well as fine sand,
        Etoilent vaguement leurs prunelles mystiques. Vaguely star their mystic pupils.


        猫たち 

        火の如き恋する者も、いかめしき学の博士も、
        同じくは愛するよ、中年の盛りの頃は、
        わが家の誇り、やさしくて、然も威ありて、
        己れらもさながらに、寒さをいとい、家居を恋う、猫たちを。

        勉学と逸楽の友、彼らは愛す、
        沈黙と闇の恐怖(おそれ)を。
        彼らもし、矜持をすてて、屈従を忍び得んには、
        かの閻魔、用いたりけん、柩車挽く馬として。

        もの思う彼らの姿、気高くて、
        久遠の夢に眠るかと、沙漠の奥に横たわる、
        大スフィンクス、さながらよ、

        婀梛けきその腰に、魔の火花散り、
        砂に似る金粉の、神秘めくその瞳、
        いろどりて、輝かす、星かとも。
        (http://necoasi.tripod.co.jp/literature.htmlより)

         論文の前書きで、レビー・ストロースは次のように記している。その詩は‘多重レベル:音韻論、音声学、構文論、作詩法、意味論他’により構成されている(Lane 1970, 202)。著者たちは‘我々が接触するレベルは、それらは互いに混ざり合い、補いまたは組み合わさる’ことを示している (同上, 217)。例えば、文法レベルと意味レベルの結びつきを記している:‘ソネットのなかの全ての存在は男性的であるが、猫とその変化した自我、大スフィンクス(les grands sphinx)は雌雄同体の性質を有する。このあいまいさは、いわゆる男性的韻に対して女性的換入[名詞]を選択するという逆説により強調される’(同上, 221)。以下に、興味を引かれた読者が自分自身のためにパターンを整理するのを、テクストとともに助ける韻の体系の分類を示す。

        行 韻のことば 英語の同意語(日本語訳) 韻の体系 韻の形体 文法的機能 単数形/複数形
        1 austeres austere(厳格な) a 女性 形容詞 複数
        2 saison season(季節) B 男性 名詞 f 単数
        3 maison house(家) B 男性 名詞 f 単数
        4 sedentaires sedentary(定住する) a 女性 形容詞 複数
                     
        5 volupte sensuality(好色) C 男性 名詞 f 単数
        6 tenebres dark(ness)(暗闇) d 女性 名詞 f 複数
        7 funebres funereal(葬送の) d 女性 形容詞 複数
        8 fierte pride(誇り) C 男性 名詞 f 単数
                     
        9 attitudes postures(態度9 e 女性 名詞 f 複数
        10 solitudes emptiness(空白) e 女性 名詞 f 複数
        11 fin end(終了) F 男性 名詞 f 単数
                     
        12 magiques magic(al)(魔術の) g 女性 形容詞 複数
        13 fin fine (すばらしい) F 男性 形容詞 単数形
        14 mystiques mystic(al)(神秘的) g 女性 形容詞 複数

         すでに、女性名詞が男性韻と結合することを述べた。この韻の形体での型を考える際に、読者は、C・レヴィ=ストロースとヤコブソンが指摘しているように、このソネットでは‘全ての実名詞[名詞]は女性的であり’そして‘すべての女性韻は複数形である’という奇妙な状況に気づくかもしれない(Lane 1970, 205, 220)。著者たちは‘ボードレールにとっては、猫のイメージは密接に女性のそれと結びついている’と主張し、‘力強く、やさしい(puissants et doux)’は、ほかの詩の女性を連想させると述べている。C・レヴィ=ストロースとヤコブソンは、2項対立の重要性を強調している。意味論レベルでは、詩における‘女性と男性との間の振動’とみなすことのほかに、もうひとつの主要な対立は、生きているもの/生命のないものであると主張している。言語レベルでは、基礎的な対立は、隠喩/換喩である。読者も、そのような対立を自分で確認できるかもしれない。詩はそれが種々のレベルで作り出した対立を‘解消’しようとしていると、著者たちは主張している (同上, 218-9)。一方、広く言われているように、構造主義が冷たいと思う人たちによって、この分析は無味乾燥であると非難されているが、それも納得できることである。元もとの構造主義分析に忠実であろうとすれば、それ自体をテクストの中の構造関係に限定することになる(Riffaterre 1970)。

         もっと広く考えると、美学の‘流れ’も特徴の対立という範列の用語で理解できる。それぞれの流れは大まかには、主になにに興味の焦点を向けていたかで確認できる:例えば、リアリズムは主に焦点を世界に向け、新古典主義はテクスト、ローマン主義は作者に向ける傾向にある(もちろんこれは、そのような目標がほかの流派によって共有されることはないということを示唆しない)。そのような広い目標は、連合する価値を生成しまた反映している。ある特定の流派の中では、種々の対立がその流派での批判的な理論家のために可能性のパレットを構成する。例えば、ローマン主義の コードは、次のような対立のいろいろな暗黙のまた明示的な分節の上に構築される:意味のある/機械的な、感覚/思想、感情/理性、自然発生(思いつき)/熟考、激情/打算、霊感/努力、天才/方法、入射/反射、直感/判断、衝動/意志、無意識/構想、創造/構築、新規/慣習、創造/模倣、想像/学習、力動的/秩序、純粋な気持ち/現実性、自然の/人工的そして有機的/機械的。これらの対のいくつかを一緒にすることは、さらなる連合を生む:例えば、自然発生(思いつき)/熟考と純粋な気持ち/現実性を一緒にすることは、自然発生(思いつき)と純粋な気持ちを同一視することになる。もっと間接的であるが、それは対立項も連合させることになるかもしれず、その結果、熟考は現実性や不誠実を反映することになる。ローマン主義文学の研究者は、しばしば表現に富む著作の中での自然発生(思いつき)は純粋な気持ちや感性への正直さの印であると公言してきた −それが、彼ら自身の作品構成上の慣例に反することになろうとも(Chandler 1995, 49ff)。‘同一の’芸術流派の中でも、古典派文学に関するAbramの研究において示されているように、いろいろな研究者が彼ら自身の枠組みを構築している(Abrams 1971)。それぞれの対立(または対立の組み合わせ)は、優先順位や他の芸術流派の価値に関する暗黙の相違を含む:(ソシュール流の否定的差異の原理のとおり)、美学的流派はそれがなんでないかによって規定される。美学的流派の進化は、そのような対立の間での緊張の結果であるとみなすことができる。同様にテクスト分析では、特定のテクスト(または神話)は読者に価値と意味の一つの集合を他に優先させるように作用する、ことが主張されている。ときには、そのような対立は、支配的なイデオロギーのために解消されるように見えるかもしれないが、ポスト構造主義者は対立の間の緊張は常に解消されないままであると主張している。

         シュールレアリズムという一つの芸術的流派は、主に対立の解消に関係しているとみなすことができる。Charles Foercevilleは次のように主張している:

           シュールレアリズムの中心的な教義の一つは、究極的には全ての対立(感覚/理性;美/醜;物体/精神、他)は、単に見せかけの対立にすぎないということである。それぞれの二つの‘アンチテーゼ(正反対のもの)’はより深い統一体の様相であり、シュールレアリストはこの統一体を示すのが彼らの使命であるとみなしている。この観点からは、隠喩が一つの事物を他の用語で表現するという決定的な特性ゆえに、一見和解できない対立を結びつけるのに重要な役割をはたすのも驚くべきことではない(Forceville 1996, 59)。

         すぐ分かるように、シュールレアリストの使命はポスト構造主義者の目標と共通する部分が多い。

         範列分析は大衆文化にも適用されてきた。野生/文明という基本的な対立の探求の中で、Jim Kitsesは、次のような一連の対立に関連し西部劇の映画の様式を分析している:個人/共同体;自然/文化;法律/銃;羊/牛 (Kitses 1970)。John Fiskeは、マスメディアのテクストに関して、そのような対立を重要な分析手段としている(Fiske 1987)。ウンベルト・エーコはジェームズ・ボンドの小説を一連の対立で分析している:ボンド/悪漢;西欧/ソ連;アングロサクソン/他の国々;理想主義/貪欲;偶然/計画;過剰/中庸;堕落/清浄;忠誠心/不実(Eco 1966)。

         2項対立は、視覚的イメージでもたどるることができる。Jean-Marie Flochは、二つの主要なコンピュータ会社である3とアップルのロゴを比較、対比させ、下に列挙した一連の連合した2項対立に基づき、その差異を明らかにしている (Floch 2000, 41)。その対比には、明確な対立は殆ど含まれていない。大体のところ、IBMのより確立されたもの/組織というイメージに対して、アップルのロゴは素朴に決められているように思われる。

          IBM Apple
        構造 反復 反復でない
          破線 連結線
        色 単色的 多色的
          冷たい 暖かい
        形状 中身 ('太い') 輪郭
          まっすぐ 曲がっている

         アップルの生産部門の前の責任者の次のような言葉が引用されている。‘我々のロゴは大いなる神秘である:それは楽しみと知識の象徴であり、部分的に食べられた虹の色が表示されているが、普通の順序ではない。これ以上ぴったりのロゴは望めないだろう:楽しみ、知識、希望そして無秩序’(Floch 2000, 54)。明らかに、かじられたりんごはエデンの園の知恵の木の物語と、IBMと東海岸とニューヨークという‘ビッグアップル’との関連を示している。幻覚的(サイケデリック)に混合された虹(緑、黄色、オレンジ、赤、紫、青)は1960年代の西海岸のヒッピーの時代を表し、理想主義と‘自分自身のことをなせ’を連想させる。このように、多色のアップルのロゴはIBMのロゴとの2項対立を表現しているにもかかわらず、IBMロゴの‘白と黒’の(またはむしろ単色的な)直線性に反映されている2元主義の否定を表そうとしている。競合会社は明らかに異なる個性(アイデンティティ)を確立する必要があり、そのような個性はロゴに反映される。この例は読者を、他の競合会社の視覚的な個性(アイデンティティ)を比較してみようという気にさせるかもしれない。

         対立が同等に重み付けされることはめったにない。ロシアの言語学者でありまた記号学者であるローマン・ヤコブソンは、有標性(markedness)の理論を紹介した。‘どの言語システムでも、すべての単一の構成要素は、二つの論理的に反対の対立の上に構築されている:属性の存在(“有標性”)は、その不在(“無標性”)の対偶にある’(Lechte 1994, 62で述べられている)。有標性の概念は、範列的な対立の極に適用できる:対となった記号は‘有標’と‘無標’の形式で構成される。これはあとで見るように、記号表現のレベルと記号内容のレベルの両者に適用される。‘有標’の記号表現は、ある特殊な記号的特徴によって見分けられる(Noth 1990,76)。言語記号に関しては、有標的形式の特性的な特徴が共通的に二つ明確にされている:これらは、形式の特徴と包括的な機能に関連している。もっと‘複雑な’形式にも印(マーク)がつけられるが、それらは次の特徴のどちらも含んでいる:

        • 形式的なマーキング。語形論的に関連した対立ではマーキングは、ある特定の形式上の特徴が存在するか存在しないかが基礎となる。有標の記号表現は、無標の記号表現に区別可能な特徴を加えることにより形成される(例えば、有標の形式である‘unhappy’は無標の記号表現‘happy’に接頭辞un-をつけることにより形成される)(Greenberg 1966; Clark & Clark, 1977; Lyons 1977, 305ff。
        • 分布的なマーキング。形式的にマークされた用語は、それらが生じる文脈の範囲でもっと制限される傾向にある(Lyons 1977, 306-307)。

         英語では、言語的に無標の形式は、動詞の現在形と名詞の単数形を含む。能動態(active voice)は通常無標であるが、伝統的な学術書という限定された様式では、受動態も時には無標の形式となる。

         言語記号の有標性は、意味論的なマーキングを含む:有標または無標の状態は、記号表現だけでなく記号内容にも作用する。‘二元説’によって、‘記号内容の中身は、一つの用語がマークされ、その他はマークされていないという一連の二元的な対照によって決定される’(Holdcroft 1991, 127)。語形論的に関連した対では、形式的なマーキングと意味論的なマーキングは明らかに関係があり、John Lyonsは、対立における分布的マーキングは多分意味論的マーキングにより決定されるだろうと示唆している(Lyons 1977, 307)。意味論的なマーキングの一つの形式は、特異性(specificity)に関連してくる。無標の用語は、しばしば一般的用語として使用され、有標の用語はもっと特定の意味で使われる。人類を指す言葉として‘Man’という用語(これは性を特定する意図ではない)そしてもちろん‘he’という言葉が一般的に使われてきた。英語では、女性に該当する分類は、一般的には男性に関連してマークされてきたのであり、これはフェミニスト研究家も無視していない論点である(Clark & Clark 1977, 524)。しかしLyonsは、マークされているのは必ずしも女性的用語だけではではないと記している。彼は、例外としていくつかの家畜を挙げ −雄牛(bull)、雄鶏(cock)、雄羊(ram)そして雄のかも(drake)− 、それらの動物が少ない数でしか飼育されていなかったためであろうと示唆している(Lyons 1977, 308)。

         複数の用語が対になっている場合、その組み合わせは対称であることは少なく、むしろ階層的である。ジョージ・オーウェルへのお詫びとともに、我々は次のような言い回しを作り出すことができるかもしれない。‘すべての記号内容は等しい、しかしその中のいくつかは他のものよりさらに等しい’。よく知られた対となる用語により、二つの記号内容が異なる価値を一致させる。無標の用語が1番目であり、先行権と優先権が与えられ、有標の用語は2番目として扱われまたは抑圧され、‘不在の記号表現’として排除されさえする。語形的な糸口(un-や-inのような)が欠けている場合、‘優先順序’または対となった用語のもっとも共通の順位が、通常、意味論的に肯定的な用語を第1のもの、否定的な用語を第2のものとして区別する(Lyons 1977, 276; Malkiel 1968)。‘用語B’は何人かの研究者によって、‘用語A’の‘結果’として生み出されると言われている。無標の用語は根本的で創造的として与えられ、有標の用語は‘それに関連して次のようなものとして理解される’:派生的、従属的、付随的、補足的または補助的(Culler 1985, 112; Adams 1989, 142。このように枠組みすることは、無標の用語は、論理的また構造的にも、それに実体を貸与する有標の用語に依存している、ということを無視している。構造主義の第一人者のC・レヴィ=ストロースさえつぎのようなことを認めている。‘対立という考えそのものが最初から、二つの形式は補助的な用語として捉えられ、同じ分類の一部分を形成するという意味を含んでいる’(Lane 1970, 202の中で)。デリダは、二元主義の対立的論理では、用語(または概念)は他がなくては意味をなさないことを示している。これが、彼が‘補充となるもの(代補)の論理’と呼ぶものである:‘境界上の’そして外的として表現される‘第2の’用語は事実、‘主たる’用語の組成でありそれにとって必然的なものである (Derrida 1976)。無標の用語は、それが排除しようとするものによって決定される。結局、基盤となる対立の境界は‘絶対的’に見えるが、権力に頼って維持されなければならない。というのは、それからの逸脱は避けられないのだから。

         対立や反対の対においては、用語Bは本質的というよりむしろ相対的に決定される。多くのこれらの対における記号表現の言語的なマーキングは、‘打消しの接頭辞’と言われ、欠如や不在を意味する接尾辞や接頭辞 −例えばnon-、un-または-lessなど− からなる。そのような場合、用語Bは否定によって決められる −つまり用語Aでないすべてのものである。たとえば、‘非言語コミュニケーション(non-verbal communication)’といったとき、その標識(ラベル)そのものが、 ‘言語的コミュニケーション(verbal communication)’との否定的関連でコミュニケーションのある様式を定義する。まさに、無標の用語は単に中立的なのではなく、有標の用語という否定的な共示儀と対比して暗黙のうちに積極的に作用する。フランスの心理分析家ジャック・ラカンにとって、男性(人間)(men)/女性(women)という対での有標は、支配や権力に関連した特権的記号表現 −男根− の不在や欠落という意味での‘象徴的秩序’の中で否定的に決定されている(とはいっても、ラカンの男根主義へのフェミニストからの批判もある、例えばLovell 1983, 44-45))。もちろん、用語Aの用語Bへの依存性が、無標の用語の役割の欠如を反映していると見られるという皮肉に注目している人々によって、有標の用語と不在や欠落との連合は問題視されている。

         無標の形式は典型的に主流となるものであり(たとえば、テクストまたは文献の集成で統計的に)、このため‘中立的’、‘正規’そして‘自然’なものに見える。このように‘透明’であり目に見えない特権的状態は注意を引かない。一方、有標の形式では、逸脱が目立つようになる。全面的には排除されないが、‘有標(マークされた)’の形式は前面に出され‘異なるもの’として表現される;それは‘異常なもの’、並外れたもの、逸脱した‘特殊な場合’であり、無標用語の標準的または基本的な(デフォルト)形式以外のなにものかである(Noth 1990, 76; Culler 1989, 271)。無標/有標は正規/逸脱と読めるかもしれない。認識的処理では無標用語より有標用語のほうがより難しいことを経験的研究が示している、のは注意すべきことである(Clark & Clark 1977)。有標形式は認識し処理するのに時間がかかり、より多くの誤りが起こる。


         

        high
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         

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        low

         

        90%+*        
        indoor/outdoor        
        up/down        
        yes/no        
        East/West        
        open/closed        
        wet/dry        
        question/answer        
        true/false        
        major/minor  80%+*      
        hot/cold on/off      
        reader/writer public/private      
        before/after male/female      
        love/hate high/low      
        top/bottom parent/child  70%+*    
        good/bad internal/external black/white    
        cause/effect gain/loss mind/body  60%+*  
        front/back human/animal left/right adult/child  
        primary/secondary past/present positive/negative urban/rural  
        birth/death gay/straight art/science product/process  
        presence/absence more/less active/passive horizontal/vertical  
        problem/solution above/below light/dark physical/mental  
        win/lose inner/outer product/system hard/soft  
        acceptance/rejection thought/feeling sex/gender fast/slow  
        inclusion/exclusion life/death static/dynamic quantity/quality  
        success/failure subject/object liberal/conservative foreground/background  
        human/machine producer/consumer higher/lower similarity/difference  
        right/wrong work/play teacher/learner temporary/permanent  
        nature/nurture good/evil war/peace nature/culture  
        theory/practice masculine/feminine body/soul poetry/prose  
        near/far health/illness fact/fiction part/whole  50%+*
        self/other comedy/tragedy form/content married/single new/old
        figure/ground insider/outsider form/function strong/weak large/small
        rich/poor happy/sad simple/complex subjective/objective local/global
        fact/opinion superior/inferior original/copy dead/alive them/us
        system/use present/absent means/ends shallow/deep system/process
        hero/villain clean/dirty appearance/reality competition/cooperation young/old
        fact/value natural/artificial competence/performance live/recorded majority/minority
        text/context speaker/listener one/many head/heart foreign/domestic
        raw/cooked classical/romantic speech/writing formal/casual structure/process
        substance/style type/token straight/curved structure/agency order/chaos
        base/superstructure nature/technology signifier/signified message/medium concrete/abstract
        knowledge/ignorance rights/obligations central/peripheral form/meaning words/actions
        fact/fantasy reason/emotion wild/domestic words/deeds beautiful/ugly
        knower/known sacred/profane stability/change fact/theory individual/society
        literal/metaphorical maker/user realism/idealism words/things strange/familiar
         
        ← more marked         MARKEDNESS          less marked →
        Markedness of some explicit oppositions in online texts retrieved using Infoseek, Sept. 2000
        *Dominant order as % of total occurrences of both forms

         書物の中での明白な言葉の対の出現頻度という限定された証拠ではあるが、著者は次のようなことを示唆したい。そのような対の一つの言葉が有標であることは共通しているが、ある場合にははっきりとマークされた用語がない場合もある。たとえば、一般的な使い方では、old/youngのような対では、優先順位があらかじめ組み込まれているようには思えない(young/oldという対を見るかもしれない)。しかも、ある用語がマークされる範囲は変わりうる。ある用語は、他の用語よりはっきりとマークされているようにも思える:(上の表の)ワールド・ワイド・ウエブ上でのテクストにおける出現頻度は、たとえばpublic/privateという対では、privateがはっきりとマークされている(第2の地位が与えられている)。ある用語がどのくらい強くマークされているかは、様式や社会的な位置づけ(sociolects)などの文脈的枠組みに依存し、ある主義のグループが、有標が反映していると考えられる思想的な優先順位に挑戦しようとするとき、ある対はある文脈で故意にそして明確に反転される。リストアップされている全ての対が、全ての人にとって‘正しい流儀’であるわけではない −どれがあなたにとって素直に納得できないか確認しまたなぜそうなのか考えてみるのも面白いのではないか。

         しかし、‘あたりまえで’良く知られている二分法とその有標性は、しばしば歴史的な起源や優勢となっていく段階が辿れるように思える。たとえば、西洋文明の歴史において、最も影響があった二元論は、哲学者ルネ・デカルト(1596-1650)によるものである。彼は、実在を二つの異なる存在論的実体 −心と身体− に分けた。この区分は外部または‘実在’世界を、内部または‘心的’世界から分離することを主張している −第一のものは物質であり、第二のものは非物質である− 。それは客観と主観という二つの極を生み、‘私’は私の身体から分離できるという幻想を育てた。さらに、デカルトの‘我思う、ゆえに我あり’という理性主義者宣言は、身体に対して精神を優先させることを促した。彼は主体を、社会的構造に優先する合理的身分を有する自律的個人として提示した(この考えはポスト構造主義者からは拒否されている)。彼は、認識するものは認識されるものから独立しているという永続的な仮定を確立した。デカルト流の二元主義は、、連合し加えられた次のような二分法の多くを支えている;理性(reason)/感情(emotion)、男性(male)/女性(female)、真(true)/偽(false)、事実(fact)/虚構(fiction)、公的(public)/私的(private)、自己(self)/他人(other)そして人間(human)/動物(animal)。 まさに、多くのフェミニスト研究家たちが、家長的談話を存在論的枠組みに調和させることは、デカルトに責任があると非難している。談話においては、そのような支配的な枠組みの中で、実在がどのように構築され、保持されるかを研究している人たちのなかでもっとも影響力がある一人が理性に関するフランスの歴史学者、ミシェル・フーコーである。彼は、特定の歴史的かつ社会−文化的文脈における‘漠然とした構造(formation)’の分析に焦点を絞っていた(Foucault 1970; Foucault 1974)。

         ポスト構造主義者ジャック・デリダ(1976)が採用した‘脱構築’の戦略は、西欧文化における書き言葉に対する話し言葉つ(音韻中心主義)の優位性に挑戦し、話し言葉と書き言葉という対立の不安定さを示すことであった(Derrida 1976; Derrida 1978)。デリダはまた記号表現に対する記号内容の優位性にも挑戦し、それを物質と精神、実体と思想という古典的な対立の続きと見ていた。そのような談話の中では、物質的な形式はつねに非物質的な形式に従属させられていたと記している。デリダは記号表現と記号内容の違いをぼやけさせようとし、‘記号内容は常に記号表現として機能している’と主張している(Derrida 1976, 7)。彼は同時に、他の優劣のある対立たとえば不在に対する存在の優位性、文化に対する自然、女性に対する男性、隠喩的に対する散文的にも挑戦した。他の‘批判的研究者’も同様にテクスト的表現の記号論的分析において‘用語Bの価値化’をしようとしたが、大部分は対立の枠組みを壊そうとすることより、価値化を単に逆転することに甘んじている。この戦略は、少数グループの何人かの活動家が多数派の支配的な言語をハイジャックした方法に反映されている −その例は英国で1999年9月にテレンス・ヒギンス協会により‘いかがわしいのは偏見だ’というスローガンのもとで推進されたホモ恐怖症に対するキャンペーンである。手際よく使われたポスターは、異性愛主義の考えを、同性愛(homosexuality)に対してホモ恐怖症(homophobia)を換入することにより変えようとするものである:‘私はホモ恐怖症に耐えられない、とくに人々がそれを誇示する場合には’;そして‘息子はホモ恐怖症だが、それが一時期のものであることを願っている’また‘ホモ恐怖症は、子供と一緒にほっておくべきではない’。皮肉な反転という戦略は、‘我々は、まだなにが異性愛を生じさせるかを知らない’(ゲイのウエブページに見られる)という当意即妙で破壊的な定式化の前兆となった。

         デリダによるソシュールの一般言語学講義の脱構築に続いて、Robert HodgeとGunther Kressは、記号論のソシュール・モデル特有の明示的な対立用語を用いて、有効な視覚的マッピングを提示した。下の図は彼らのものに基づいている。一番左の用語はソシュールが優先順位をおいたそれを表し、右のものは講義のなかで触れなかったものである。ソシュールが価値を与えなかった用語を再評価しようとして、HodgeとKressは‘ソシュールにとってのガラクタであった内容’に関して、彼ら自身のもっと明確に社会的でありかつ唯物主義的である記号論の枠組みを構築した。‘他の記号論’に関する彼らの議題は、以下に基づいている:

        1. 記号論にとって本質的なものとしての文化、社会、政治;
        2. 言葉の言語以外の記号システム;
        3. 話す行為であるパロールとほかのコードによる確固とした意味作用
        4. 通時態、時間、歴史、過程そして変化;
        5. 意味作用の過程、意味システムと指示の構造の間のやり取り;
        6. 記号内容の構造;
        7. 記号の物質性。
          ((Hodge & Kress 1988, 17))

         有標性の概念は言葉や概念の範列的対(pairing)に単純に適用するだけではなく、もっと広い範囲に適用できる。テクストの中であろうが社会的な行為であろうが、有標の形式を選択することは‘言明する’ことである。テクストが従来の表現から外れると、それはマークされる。慣習的なまたは‘過度にコード化された’テクスト(それは、かなり予測できる方式に従う)はマークされず、慣習的でなくまたは‘コード化が不十分な’テクストはマークされる。マークされたまたはコード化が不十分なテクストは、解釈者に解釈のための作業を強いることになる。

         有標形式の存在は単に記号システムの構造的特徴ではない。Kathryn Woodwardは、社会的秩序が生み出されそして保持されるのは、差異...のマーキングを介してである、と主張している(Woodward 1997, 33)。無標の形式は、支配的な文化的価値を反映している。フランスのフェミニストHelene Cixousは、男性の好みにより一貫して重み付けされた2項対立の性差別的性格を強調している(Woodward 1997, 36 and Allen 2000, 152で言及されている)。Trevor Millumが記しているように:

           一般の人間や社会や特定の個人が、男性や女性の価値を推定する基準は中立的でなく、Simnelが述べているように、‘基本的にそれ自身男性的である’。男性であることはある意味で正常なことであり、女性であることは異なり、基準から離れ、異常なことである (Millum 1975, 71)。

         著者の研究室の学生Merris Griffithsは、有標形式をマスメディアの分野に適用し、おもちゃのテレビ広告の製作や編集スタイルを調べた。彼女が見出したものは、主に男の子向けの広告は、女の子向けの広告より両方の視聴者を対象とした広告と共通したところが多い、つまり‘女の子向けの広告’は、おもちゃの宣伝では有標の分野であることを示していた。とくに、女の子向けの広告には、意味ありげなより遠くからの画面や意味ありげなより溶暗(画面をぼかして次の画面を重ねる)が多く、遠くからの画面が少なく、クローズアップ画面が多く、低い位置からの画面が少なく同じ高さの画面が多い、さらに高いところからの画面が少ない。制作での性差別の利用は、子供向けの宣伝が次のような一連の2項対立を反映しているということをはっきりさせている −速い/遅い、突然/緩やか、興奮/冷静、主動/受動、分離/包含。そのような宣伝でのそれらの密接な連合は、それらを‘男性的’対‘女性的’性質として首尾一貫して一線に並べる。コマーシャルにおける形式の特徴の‘相対的自律性’は、そのような性質を性別と連合させるより広い文化的決まり文句の定常的な象徴的再肯定として機能するように見える −とくに性別− 紋切り型の内容が付随した場合に。読者は、大通りの電気店で‘暗い商品’と‘明るい商品’を伝統的に売るやり方を思い浮かべるかもしれない。テレビ、ビデオレコーダや音響システムは主に男性をターゲットとし、販売スタッフは技術的性能に焦点をあてる。冷蔵庫、洗濯機や電子レンジなどの明るい商品は女性に狙いを絞り、販売スタッフは外見に焦点をあてる。この特定のパターンが、あなた自身の中でどの程度生きているかは、研究的な‘ウインドウ−ショッピング’によって点検できる。

         ‘二元論’は‘全てのものを二つの分類に分けてみようとする人々の情熱’と定義されてきた(Hervey 1982, 24)。次のような、楽しいが皮肉な(いろいろ作者のものとされている)名句がある。‘世界は、人々を二つの型に分ける人とそうでない人に分けられる’。一方、単純な二分法は説明が容易であり有用であるだということは、生命と(多分あやまった‘実在主義’的相似性により)テクストは‘継ぎ目のないくもの巣’であり、連続体という用語を用いた方がより詳細に記述できるという立場から意義申し立てがなされている。しかし、どの理解の枠組みもその物体を操作可能なかたまりに分解することを忘れてはいけない。それが適切かどうかは、それが問題となっている現象の理解を進めるかどうかという点でのみ評価される。

         構造主義記号学者のA.J. グレマスは、対となった概念を充分に説明する手法として、記号論的四角形を導入した(かれは、スコラ哲学の‘論理的四角形’から考案した)(Greimas 1987, xiv, 49)。記号論的四角形は、テクストの主要な意味論的特徴を関連付ける論理的連結と断続をマッピングしようとするものである。Fredric Jamesonは‘全体の機構は‥‥、基本の2項対立から少なくとも10個の位置を作り出すことができる’と記している(in Greimas 1987, xiv)。一方、これは記号システムにおける意味の可能性は、二値論理の何々かあるいは何々か(either/or)よりも豊かであることを示唆しているが、それでもやはり‘記号論的制約’を受ける −それは意味の基本軸を実現する‘深層構造’である−。

         シンボルS1、S2、NotS1とNotS2は、システム内での具体的なものや抽象的な概念が占める位置を表現する。両端の矢印は双方向の関係を表す。グレマス流の四角形の上部のコーナーは、S1とS2の対立(たとえば白と黒)を表す。下部のコーナーは、単純な2項対立では考慮されていない位置を表す:NotS2とNotS1(たとえば、黒でないと白でない)。NotS1は単純なS2以上のものから構成される(たとえば、白でないことは必ずしも黒でない)。水平的な関係は、左側の項(S1とNotS2)のそれぞれと対になった右側の項(とS2とNotS1)との対立を表す。上の項(S1とS2)は‘存在’を表し、一方それらの片方(NotS1とNotS2)は‘不在’を表す。縦の‘包含’関係は、S1とNotS2とのまたS2のNotS1との代わりとなる概念的な合成を提示する(たとえば、白いものと黒くないもの、黒いものと白でないもの)。グレマスは、4つの位置の関係について次のように言及している:矛盾または対立(S1/S2);補足または(意味の)包含(S1/NotS2とS2/NotS1);そして矛盾(S1/NotS1とS2/NotS2)。Varda Langholz Leymoreは、説明するための例として、関連した言葉である‘美しい’と‘醜い’を挙げている。記号論的四角形では、四つの関連した言葉は(時計回りに)‘美しい’、‘醜い’、‘美しくない’、‘醜くない’となる。最初の対は単純には2項対立ではない。というのは‘美しくないものは必ずしも醜くはなく、反対に醜くないものは必ずしも美しいわけではない’からである(Langholz Leymore 1975, 29)。同じ枠組みが多くのほかの言葉に建設的に適用できる、たとえば‘やせている’と‘太っている’である。


         そのような枠組みの中で、ある位置を占めることは記号に意味を授ける。記号論的四角形はテクストや行為の‘隠された’土台となるテーマを明らかにする。ここに示された四角形のすこし変更されたバージョンを用いて、Fredric Jamesonはそれがどのようにチャールズ・ディケンズの小説、ハード・タイムズに適用できるか、その概要を示している。


           ハード・タイムズでは、二つの敵対する知的なシステムにあたるものの対決を目撃している:グラッドグリンド氏の事実尊重精神(‘事実!事実!’)と、シシー・ジューペとサーカスにより象徴される反事実または言葉を変えれば空想の世界。その小説は、主に教育者の教育であり、グラッドグリンド氏の、かれの非人間的なシステムからのその反対のものへの転換である。それはグラッドグリンド氏に執行された一連の授業であり、これらの授業を二つのグループに分類し、それらを二種類の質問に対する象徴的回答と解するかもしれない。あたかも小説の筋のように項NotS1とNotS2を生成することは、これらの謎の解を視覚化する一連の試みと同然である:想像力を打ち消し、否定すればなにがおこるか?反対に事実を否定すればなにがおこるか?少しずつ、グラッドグリンド氏のシステムの産物が、我々に否定の否定、想像の否定がとるさまざまな形式を示してくれる:彼の息子のトム(盗み)、かれの娘ルイーサ(姦通、または少なくとももくろまれた姦通)、彼の理想的生徒のブリッツアー(告発、一般的には魂の死)。このように、ここにない4番目の項が舞台の中央に出てくる;筋書きはそれに想像上の実在を与え、虚偽の解と受け入れ難い仮定を介して、適切な具体的表現が話の中の用語で実現されるまで作用する。これを見つけることで(グラッドグリンド氏の教育、ルイーサの遅くなった家族愛の経験)、意味の四角形は完成され小説は終わりを迎える。(Jameson 1972, 167-168)

         グレマスの本の英語訳の序文で、Jamesonはその手法を用いている。彼は次のように示唆している。分析家は、暫定的に全ての要素を並べ上げ統合することから始め、そして明らかに少し外れていることをこの最初のリストに加えていくべきである。彼は次のようにも記している。主要な対立語の順序が決定的である:既に、そのような対では、最初の用語が大体、優先されることを見てきた。また、彼は次のように、加えている。‘(グレマスの四角形の)4個の主要な用語は...多義的に捉えられるべきであり、夫々は、それ固有の同義語の範囲内で、四個の主要語はそれら自身の四重のシステムへの口を開かせることを意味している’(Greimas 1987, xv-xviの中で)。Jamesonは次のようにも示唆している。Not S2つまり否定の否定は、‘常にもっともきわどい位置であり、もっとも長期間、オープンで空にとどまっている、というのはそれを明確にすることは、過程を完成させまたその意味では、構築というもっとも創造的な行為を構成するからである’(同上, xvi)。前に検討した、美学の流れとそれらの主たる焦点の例を使えば、読者が記号論的四角形をこれらに適用することにより、興味深いことを見出せるだろう。要点を繰り返すと、実在主義は主に世界を指向する傾向にあり、新古典主義はテクスト、ローマン主義は作者を指向する。世界、テクストおよび作者を、記号論的四角形の3つの角に割り当てることができるかもしれない −4番目の項はないので、かえって目立ってくる。Jamesonの項の順序と定式化に関する但し書きは、ここで役に立つかもしれない。

         他の文脈になるが子供のおもちゃに関連して、Dan Flemingは記号論的四角形のとっつきやすい応用例を提示している(Fleming 1996, 147ff)。Gilles Marionは、グレマス流の四角形を用いて、服装を介したコミュニケーションの4つの目的を示唆している:見られることを望む;見られることを望まない;見られないことを望む;見られないことを望まない(David Mickの草稿出版物で述べられている)。もっと最近では、Jean-Marie Flochがその格子を、Habitat and Ikea furnitureによって表現された‘消費価値’の面白い調査に使っている(Floch 2000, 116-144)。しかし、記号論的四角形の用語を用いたテクストのグレマス流の分析は、安易に還元主義的でプログラム的な記号解読に導くと批判されている。もっと悪いことに、何人かの研究者はその四角形を客観的に見える枠組みと同じように使い、それにより首尾一貫性と統一理論の外見を与え、議論と高度に主観的な意見を失ってしまっている。

         構造主義的分析の批判者たちは、2項対立を互いに関係付けて理解する必要があるだけでなく、テクストに浮かび上がってくる社会システムの用語で文脈化する必要があると記している((Buxton 1990, 12)。この構造主義的接近法を使う人たちは、テクストの‘隠れた意味’を分析していると主張する:隠れた意味とは、‘真に’語っていること。不幸にも、そのような接近法は、解釈者の枠組みに関する主体性を典型的に過小評価している。それらに光をあて調べてみると、明確になったこれまで隠されていた対立はテクストそれ自体に含まれるよりも、解釈者の心の中にあることが多い(Culler 1975; Adams 1989, 139)。また、他にも次のような反対もある。‘神聖な/冒涜的そして幸福/不幸のような範疇が深い意味で心理的に実在しているかどうかという疑問は提示されず、構造主義の内部論理はそのようなこと持ち出す必要がないことを示唆するだろう’((Young 1990, 184)。

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