特定の言葉は、その‘文字どおりの’意味(その指示義)の他に、共示義を持っているといってよい:例えば、性的な共示義である。喜劇役者の Kenneth Williams は‘単一の意味 (single entendre、一般的には double-entendre で二重の意味やだじゃれを指す)のようなものがあるか?と皮肉っている(歌手の Melanie が言っているように、‘細長いものが男根の象徴である’ことを、我々はみな知っている)’。記号論では、指示義と共示義は、記号表現と記号内容の関係を記述する用語であり、分析的な区分は記号内容の二つのタイプの間でなされる:指示的な記号内容と共示的な記号内容。意味は指示義と共示義の両者を含む。
‘指示義’は、記号の断定的、‘字義的’、‘明白な’または‘常識的’意味として記述される傾向にある。言語記号では、指示的意味は辞書が備えようとするものである。美術史家 Erwin Panofsky にとっては、具象主義の視覚的画像の指示義とは、鑑賞者がどんな文化に属していても、いつでも画像をそこに描かれたものとして認識するものである(Panofsky 1970a, 51-3)。そのような定義さえ、論争を起こす −全ての鑑賞者?人は、これは幼い子供を除きまた例えば、気が狂っている人を除くと考える。しかし、それが‘文化的に良く調整されていること’を意味するなら、それはすでに文化特有のものであり、共示義の領域に我々を導いていく。‘共示義’という用語は、記号の社会−文化的そして‘個人的’連合(思想的、感情的ほか)を指すのに用いられる。これらは、解釈者の階級、年齢、性別、人種そのほかに関連付けられる。記号は、共示義において、その指示義より‘多義的 (poly-semic)’である −解釈に開かれている− 。時には、指示義はデジタルコードそして共示義はアナログコードと認識されている (Wilden 1987, 224)。
ロラン・バルトが記しているように、ソシュールの記号モデルは共示義を犠牲にして指示義に焦点をあてており、共示義という意味の重要な次元を考慮することは後継者 (特にロラン・バルト自身)に任された (Barthes 1967, 89ff)。‘写真的なメッセージ’(1961) や‘画像のレトリック'(1964) の中で、写真では共示義は指示義から(分析的に)区分されうると、バルトは主張した (Barthes 1977, 15-31, 32-51)。Fiskが言っているように、‘指示義は撮影されたものであり、共示義はいかにそれが撮影されたかである’(Fiske 1982, 91)。しかし、写真においては、指示義が共示義を犠牲にして前面に出てくる。写真の記号表現は、記号内容と仮想的に一致しているように見え、コードの介在なしに制作された‘自然の記号’に見える (Hall 1980, 132)。バルトは最初、指示義という‘文字どおりの (literal)’レベルより高いレベルでのみコード(つまり、共示義のコード)は同定されうると主張した(これは、コードを議論するとき戻る)。1973年までに、バルトはこの問題に対する彼のよりどころを移した。バルトは、写実主義の文学テクストを分析して次のような結論に達した。‘指示義は1番目の意味ではなく、そのように偽っているのだ;この幻想の下では、指示義は結局、共示義(それは読むことを始め、また終わりにするようにも思える)の最後のもの、テクストが言語の本質、本質としての言語に戻るように見せかける卓越した神話に過ぎない’(Barthes 1974, 9)。簡潔に言えば、共示義は指示義という幻想、言語は透明であるという幻想そして記号表現と記号内容は一体であるという幻想を生み出す。このように、指示義は、もう一つの共示義である。そのような観点からは、指示義は共示義がそうでないように‘自然の’意味としては見られず、むしろ自然的にする (naturalization) 過程として見られる。そのような過程は、指示義は純粋に字義的 (literal) でまったくイデオロギー的でない普遍的な意味である、また個々の解釈者にとってほとんど明らかとも思える共示義はまさに‘自然的’である、という強力な幻想につながってくる。アルチュセール流の読解によれば、我々が最初に指示義を学ぶとき、同時に主要な共示義を学習することにより、我々はイデオロギーの中に位置付けられる(Silverman 1983, 30)。
結局、研究者たちは、指示義から共示義を区別することが分析的に有用であることを見出すかもしれないが、実際には、そのように意味をきちんと分離することはできない。ほとんどの記号学者は、純粋に指示的な −共示義を欠いた− 記号はないと主張する。Valentine Voloshinov は、指示義と共示義の間には厳密な分割はないと主張する。というのは、‘指示的な意味は評価によって型にはめられる...、意味は常に価値判断とともに浸透する’(Voloshinov 1973, 105)。評価的な要素から自由な、中立的かつ客観的な記述はありえない。David Mick と Laura Politi は、指示義と共示義を区別しないことを選ぶことは、理解と解釈が同じように分離不可能であると認めることと同類である、と述べている (Mick & Politi 1989, 85)。
大部分の記号論者にとって、指示義も共示義もコードの行使を含む。記号表現の相対的な恣意性を強調する構造主義記号論者、そして解釈の多様性や文化的・歴史的文脈の重要性を強調する社会記号学者は、‘字義的な (literal)’意味という考えを受け入れようとしないだろう。指示義は単純に、より広い合意を含む。記号の指示義的な意味は、同じ文化をもつ人たちにより広く認められている。一方、‘彼らの共示義が正しくないからといって誰も非難されない’。そのように、記号によって生成された共示義的な意味の目録は完全ではあり得ない(Barnard 1996, 83)。しかし、ここには共示義の‘個人の主観’を強調する危険がある:‘相互の主観的’反応は、文化の成員によってある程度、共有される;個々の例でも、共示義の限られた範囲のみが意味をなす。共示義は、純粋に‘個人的な’意味ではない −それらは解釈者が参照するコードによって決められる。文化的なコードは共示義的な枠組みを与える。というのは、それらは‘主要な対立と等価性の周辺で組織され’、各項は‘一群の象徴的な属性と提携している’からである (Silverman 1983, 36)。共示義のあるものは、ある文化の中で広く認知されている。西欧では、自動車は男らしさと自由を共示できることを、多くの成人が知っている。
ロラン・バルトは、彼のエッセイ‘画像のレトリック (Rhetoric of the Images)’からの下に示す抜粋で、宣伝という文脈での共示義の狡猾さと力を示している。
ここに Panzani の広告がある:パスタの包み、缶詰、香料の袋、トマト、たまねぎ、こしょう、マッシュルーム、それらはみな半分開いた網袋から出ようとしている。色はバックグラウンドが赤で、黄色と緑である。それが持つ異なるメッセージを‘ざっと読んで (skim off)’みよう。
その画像は最初のメッセージをもたらすが、その実体は言語である;その証拠は欄外にある見出しと、そのシーンの自然の配置に挿し込まれているラベル 'en abyme’である。このメッセージを成り立たせているコードは、フランス語のそれに他ならない;それを解読するために必要とされる唯一の知識は、フランス語の文字に関する知識である。実際には、このメッセージはさらに分類される、というのはPanzaniという記号は会社の名前とともに、その母韻によって更なる記号内容である‘イタリアのもの’ということを表す。このため、言語的なメッセージは二重になる(少なくとも、この特定の画像では):指示義的と共示義的。しかし、ここには単一の典型的な記号、すなわち分節された(書かれた)言語の記号、があるので、一つのメッセージとして検討される。
言語的なメッセージを脇におき、純粋な画像(たとえ、ラベルがその一部であっても)から始める。この画像は、直接的に一連の非連続的記号をもたらす。最初は(これらの記号は線状的でないので、この順序は重要でない)、ここに表現されている場面から我々がもつ観念は、市場からの反応である。記号内容は、それ自身、陶酔的価値をもたらす:製品の新鮮さと消費地へ向けての本質的に自家生産という価値である。記号表現は、半開きのバッグであり、それは食料をテーブルの上に広げている、つまり‘包装されていない’。この最初の記号を読むために必要なのは、‘近所で買い物をする’ことは‘機械的’文明である軽率な貯蔵(缶詰、冷蔵庫)と反対のことである、という広く普及した文化の習慣として教え込まれている知識があれば良い。第2の記号も、多かれ少なかれ同じように明らかである;その記号表現は、トマト、こしょうとポスター3色の色合い(黄色、緑、赤)の集合である;その記号内容は、イタリアまたはむしろイタリア的 (Italianicity)である。この記号は、言語のメッセージ(Panzani という名前のイタリア的母韻)の共示された記号と重複しており、それが作成する知識はより知られている;それは‘フランス人の’知識(イタリア人は、その名前の共示義としてトマトやこしょうというイタリア的のもの以上の認識は持っていない)であり、旅行客のあるステレオタイプで知られている。その画像を探りつづけると(それは最初見たときに、まったく明らかでないと言っているのではない)、なんなく他に二つの記号を見つけることができる:第一に、いろいろなもの密集した集まりはトータルな台所サービスという考えを伝えている。つまり、一方ではあたかもPazaniは注意深くバランスした食事に必要なものは全て生産し、他方ではあたかもそれを缶詰にすることは、自然の生産物と同じだと言う様に;もう一つの記号では、画像の構成は、それは食べ物に関する数え切れぬほどの絵画を呼び起こし、我々を美的な記号表現に送りこむ:‘nature morte’または、他の言語でもっとよく表現されるように‘静かな生活 (still life)’;この記号が依存している知識は、文化によるものである。
共示義と指示義はしばしば、表現のレベルまたは意味のレベルという用語で記述される。ロラン・バルトは、意味作用には異なる順位 (order)があるという考え、ルイス・イエルムスレフからを借用した(Barthes 1957; Hjelmslev 1961, 114ff)。第1次の意味作用は、指示義である:このレベルには、記号表現と記号内容からなる記号がある。共示義は、第2次の意味作用であり、指示義的記号(記号表現と記号内容)を記号表現として使い、それに付加的な記号内容を付ける。この枠組みでは、共示義は、指示義的記号の記号表現から導かれる記号である(そのようにして、指示義は共示義の連鎖に通じていく)。ここでは、指示義は基礎でありかつ根本的な意味となる −他の多くの研究者が挑戦してきた考えである。バルト自身は後で、共示義に優先権を与え、1971年に記号表現から記号内容を分離、つまり‘文字どおり’からイデオロギーを分離するのは容易でないと記している(Barthes 1977, 166)。ついでに、このような定式化は、次のようはことを強調していると言えるかもしれない。‘何が記号表現でなにが記号内容かは、分析が作用するレベルにまったく依存する:あるレベルの記号内容は、もう一つのレベルの記号表現になり得る’(Willemen 1994, 105)。これが、記号は一つのものを表すが、しかし多くの意味も持たされるということの仕組みである。
同じ記号内容を保持しながら、記号表現の形を変えることにより、異なる共示義を生成することができる。スタイルや調子を変化させることは、違った共示義を含むかもしれない。例えば、まったく同じテクストに対して異なる活字体(typeface)を使うことや、写真を撮るとき、はっきりした焦点(sharp focus)をぼやけた焦点(soft focus)に変えることなどである。言葉の選択は、しばしば共示義を含む。‘恐喝’対‘論争’、‘組合要求’対‘経営側の申し出’などである。隠喩のような言葉の比喩は、共示義を生む。
ソシュールが範列的次元を‘連想的(associative)’として特徴付けていることが示唆しているように、共示義は純粋に範列的な次元というわけではない。ある記号表現に連合される不在の記号表現が共示義を生む一つのキー要因であるのは明らかであるが、同時に統語的的な連合でもある。ある記号表現の共示義は、特定のテクストの中でそれとともに生ずる他の記号表現とも部分的に関連している。しかし、共示義を範列と統語という用語で、全体的に見ることは我々を言語システムに閉じ込めることになり、しかも共示義は言語がどのように使われるかという問題になってくる。また、純粋に構造主義的な評価は共時的視点に限定することになるが、共示義および指示義は社会文化的に変化を受けるだけでなく、歴史的要因にも影響される:つまり、時間とともに変化する。(‘女性’のような)権力を与えられていないグループに関する記号は、その時代の主流のまた権威付けられたコードの中での枠組みのために、今よりも、もっと負の指示義とともに負の共示義を持っていたと見られる。それは一見‘客観的に’見える科学的コードでも同じである。Fiskは、‘指示義的要因として共示義的価値を読むのは容易である’(Fiske 1982, 92)。しかし、指示義を‘字義的’、‘自明’、‘真理’として受け入れるのは、危険なほど魅惑的である。記号論的分析は、精神のそのような習性に反対するのを支援することができる。
記号論的分析の主要な方法論は定性的であるが、記号論は定量的手法の使用と両立しないわけでない。1957年に、心理学者 Charles Osgood と彼の同僚は 、The Measurement of Meaning(意味の測定)という本を出版した(Osgood et al. 1957)。その中で、コミュニケーション研究者たちは、共示義(または‘感情的な意味’)のシステム的マッピングのために、意味的微分(semantic differential)と呼ばれる手法の輪郭を示している。その手法は、次のようなペーパー・テストを含んでいる。テストを受ける人は、二極の形容詞の少なくとも9個のペアに関して1から7等級までの特定の位置を指示することで、特定の対象、状態またはできごとに関する印象的反応を示すことが要求される。目的は、概念を3次元の‘意味空間’に位置付けることである:評価(例えば、良い/悪い);力(例えば、強い/弱い);そして積極性(例えば、積極的/受動的)。その方法は、態度や感情的な反応を調べるのに有効であることが分かっている。例えば、異なる文化圏のグループの比較のために用いられている。この方法は、社会科学で比較的広く用いられているが、記号論者はあまり使っていない(この中には、‘共示義の科学者’を自任するロラン・バルトも含まれる)。しかし、二項対立は、通常、構造主義の記号論者にとって理論的な構築材料(building-block)を供給することになる。
共示義に関しては、ロラン・バルトが神話 (myth)として取り上げたものがある。神話というと、我々は普通、神々や英雄の手柄に関する伝説を連想する。しかし、バルトにとって、神話は我々の時代の主体となるイデオロギーであった。バルトは、イエルムスレフのモデルから離れて次のように主張した。指示義や共示義と呼ばれる意味作用の秩序は、イデオロギーを生むために組み合わされる −それが第3次の意味作用として記述されてきたものである(バルトはそのように言わなかったが)(Fiske & Hartley 1978, 43; O'Sullivan et al. 1994, 287)。バルトは、彼のエッセイ‘現代の神話 (Myth Today)’(神話集の中)の非常に有名な例で、神話のこの概念を説明している。
床屋にいたとき、Paris-Match のコピーを渡された。表紙には、フランス軍の制服の若い黒人が、斜め上、多分三色旗に目を固定して敬礼している。これ全てが、この絵の意味である。しかし、無邪気かどうか分からないが、それが私に語りかけてくることが良く見える:フランスは偉大であること、全ての国民 (all her sons)はその旗の下、肌の色の区別なく、忠実に奉仕すること、そしていわゆる植民地主義に対する批判者に対する回答としては、いわゆる抑圧者に奉仕する黒人によって示されている厚い忠誠心以上のものはないこと。このため、私は再び大きな記号システムと向かい合うことになる:記号表現があり、それ自身は以前から存在するシステムで形成されている(黒人はフランス流の敬礼をしている);記号内容がある(ここではそれはフランス的と軍人らしさの、意味慎重な混合である);最後に、記号表現を介した記号内容の存在がある..。神話では(そしてこれが記号表現の主たる奇妙さであるが)、記号表現はすでに言語の記号により形成されている..。実際、神話は二重の機能を有している:それは指し示し、そして通告する、それはなにものかを我々に理解させ、そしてそれを押し付ける..。
もし、その写真を解放したいなら、黒人の像をかっこにいれ、そしてその意味内容を受けとめるように用意させなければならない..。形式は意味を削除せず、それを弱らせ、遠のけるだけである..。神話を決定するのは、意味と形式のこの絶え間ない隠れん坊のゲームである。神話の形体は象徴ではない:敬礼する黒人は、フランス帝国の象徴ではない:彼には余りにも大きな存在感があり、彼は裕福で十分に経験があり、のびのびまた罪がなく、議論のないイメージのように見える。しかし同時に、この存在は飼いならされ、遠くに追いやられ、ほとんど透明にされている;それは少し退却し、十分に軍事化したフランス帝国主義にそれに近づける概念の共犯者になる。
神話は...はその字義的な意味...より多分に意図...によって決定される。それにもかかわらず、その意図は、ある程度、凍結、純化、永遠のものまた神話という字義的な意味によって不在のものとなされる(フランス帝国主義?その写真は単に事実である:本国の少年のように敬礼している、この好ましい黒人を見なさい)。この中に含まれる曖昧さ...は、意味作用に対する二つの結果をもたらし、それゆえ通知のようにもそして事実に関する陳述...のようにも見える。フランス帝国主義は、敬礼する黒人は道具的な記号表現に過ぎないと宣言し、その黒人は突然、フランス帝国主義の名前で私に挨拶する;同時に、黒人の敬礼は強まり、ガラス状になり、フランス帝国主義を確立するように意味された永遠の身元保証人へと凝結していく。
ここで、まさに神話の原理に到達する:それは歴史を、真に迫っていること(nature)に変換する..。黒人の兵士の場合には...取り除かれたものは確かにフランス帝国主義ではない(反対に、活性化されたに違いないのはその存在である);一言で言えば、偶然のこと、歴史的である:でっち上げられた、植民地主義という性格。神話は、物事を否定せず、反対に、その役割はそのことについて語ることである;簡単に言えば、神話は、それらを純化し、無実とし、それらに本来的でかつ永遠の妥当性を与え、説明の明確性でなく事実の陳述としての明確性を与える。もし、私が説明なしにフランス帝国主義という事実を語るなら、私は、それが本性のものでありかつt説明なしで済ませられるということを見出したのである:私は安心する。歴史から本来のものへ移る過程で、神話は経済的に作用する:それは人間の行動の複雑さを排除し、それらに本質という簡潔さを与え、全ての論理的推論を遠ざけ、直ちに見えることを飛び越して戻ることにより、矛盾のない世界を構築する..。物事は、それ自身で何かを意味するように見えるようになる..。
記号とコードは、神話(myths)によって生成され、続いて神話を持続するように動作する。‘神話’という用語の一般的な使い方は、それが論理的には嘘であるような思い込みのことを指している、ことを示唆しているが、その用語の記号論的使い方は、必ずしもそうではない。神話は、拡張された隠喩(metaphors)として見ることができる。隠喩と同じく、神話は我々がある文化の中で我々の経験の意味を理解するのを助ける(Lakoff & Johnson 1980, 185-6)。神話は表現し、そして一つの文化の中で、あることを概念化するための共有される方法を組織するように作用する。ソシュール流の伝統では、記号学者は自然と文化の関係を、相対的に恣意的であるとして扱う(Levi-Strauss 1972,90,95)。バルトにとっては、神話は自然化する(naturalization)というイデオロギー的機能として作用する(Barthes 1977, 45-6)。それらの機能は、文化を自然的なものにすることである −言い換えれば、主流の文化的や歴史的価値、態度や信用が、まったく‘自然で’、‘正常で’、自明で、永久的で、明らかに‘常識的である’と思えるようにすることである− そしてこのように神話は、‘物事のあり方’の客観的かつ‘真の’反映となる。現在の記号学者は、社会的なグループは、彼ら自身に優先権や権力をもたらすものは何でも‘自然的’であるとみなす傾向にある、と主張する。バルトは、神話はブルジョア(有産階級)の思想的権益に資するものと見ていた。‘ブルジョアのイデオロギーは...、文化を自然なものにする’と彼は宣言している(Barthes 1974, 206)。George Lakoff と Mark Johnson は、西欧文化で主流であり行き渡っている客観主義という神話の主要な要因を概説している −科学的真理、合理性、正確性、公正そして公平と同盟した神話、科学、法律、政治、ジャーナリズム、道徳、ビジネス、経済そして学問の言説に反映された神話(Lakoff & Johnson 1980, 188-9)。神話は、記号やコードの思想的な役割を隠すように作用する。そのような神話のパワーは、‘説明なしですます’ことであり、その結果、解読や解釈または明確にする必要がないように見えることである。
意味作用の3つの順位の差異ははっきりしていないが、記述的また分析的目的のために、理論家はそれらを次の線に沿って区別している。意味作用の第1(指示義的)順位(レベル)は、主に具象主義的であり、比較的自己充足的である。意味作用の第2(共示義的)順位は、記号に付与されている‘意味ありげな’価値を反映している。第3(神話的または思想的)順位では、記号は、 −男らしさ、女らしさ、自由、個人主義、客観主義、英国らしさなどの− 特定の世界観を支える、文化によって変わる概念を反映する。Susan Haywardはマリリン・モンローの写真を用いて、意味作用の3つの順位に関して有益な例を提供している:/p>
文化的な神話の記号論的分析は、どの価値、態度そして信用が支持され、その他のものが抑圧されるかを明らかにすることを目的に、特定のよく知られているテクストや分野でコードが作用する方法を脱構築する試みを含む。そのような文化的仮定を‘自然でないものとする’タスクは、記号論者が同じ文化の成員である場合は問題が多い。というのは、その文化の成員であることは、その主要な観念の多くを‘認められたものと考える’ことを含むからである。それでもやはり、この方法で我々自身の文化を分析しようとする場合には、‘われわれ自身’の価値について明白に懐疑的であることが絶対に必要である。