1972年にNASAは、宇宙に星間探査ロケットパイオニア10号を送った。それは、金の銘板を積んでいた。
異性人とのコミュニケーションに関するこの企画についてのエルンスト・ゴンブリッチのコメントは、記号論者たちがコード(規約の体系codes)と呼ぶものの重要性を浮かび上がらせてくれる。‘コード’という概念は、記号論では基本的なものである。ソシュールは言語の全体にわたるコードを取り上げたが、勿論、記号は単独で意味を持つものでなく、互いに関連させて理解される時のみ、意味を持つことを強調している。テクストの生成や解釈がコードの存在やコミュニケーションのための慣例に依存することを強調したのは、もう一人の言語学者であり構造主義者のローマン・ヤコブソンである((Jakobson 1971))。記号の意味は、それが置かれているコードに依存するので、コードは、記号が意味を持つ枠組を与える。まさに、もし記号がコードの中で機能しなければ、記号に何らかの資格を認めることができない。さらに、もし記号表現とその記号内容の関係が恣意的であるならば、記号の慣例的な意味を理解するには、適当な集合の慣例をよく知っていなければならないというのは明白である。テクストを読むことは、それを適切な‘コード’に結び付けることを含む。写真のように、指標的かつ類像的な記号でさえ、3次元から2次元への変換を含み、そして人類学者は、未開の部族に最初写真や映画を理解させるのが難しいことを、報告している(Deregowski 1980)。一方、歴史学者は、瞬間の早撮り写真は、近年でさえ、西欧の人たちが、一瞬な動きを捉えたイメージに慣れていずまた文化的な慣れや訓練を必要としたため、彼らを戸惑わせたと報告している(Gombrich 1982, 100, 273)。Elizabeth Chaplinが言っているように、‘写真は、学ばないとはっきりと分からないものを見る新しい手法を導入した’ (Chaplin 1994, 179)。人間が見るものは、一連の四角の枠組に似ていないし、撮影技法や編集という慣例は、我々が日常世界を見る方法の直接的な複製ではない。日常生活において、我々の周りにある物を見る時、両目で見また見ているものと関連させて頭を回転させたり動かしたりすることで、、深さを知覚する。鮮明な視覚を得るため、目の焦点を調節できる。しかし写真を見て深さを知るのにはこれらはどれも助けにならない。我々は、手がかりを解読しなければならない。記号論者は、時間をかけて見せることは、‘視覚的言語’を‘自然なもの’に見せるようにするが、視覚的そしてオーディオ−ヴィジュアルなテクストを‘読む’方法を学ぶ必要があると主張している(しかし、この立場に批判的なものとしては、Messaris 1982 and 1994 がある)。写真や映画に難しさを経験する未開部族に何らかの優越感を感じる西欧人は、東洋の版画や代数方程式のようなあまり馴染みのない人工物にどう感じたか思い出してみるべきである。そのような形式の慣例は、理解するためには勉強する必要がある。
我々の周囲を取り巻く日常世界の認識さえ、コードを含んでいると主張する研究者もいる。Fredric Jamesonは、‘全ての認識システムが、本来的に言語である’と宣言している(Jameson 1972, 152)。デリダが言っているように、認識は常に表現である。‘認識は、世界を心の中で再現できる類像的記号に、コード化することに依っている。しかし、明確な同一性の力は、巨大である。我々は“心の目”で見た世界をコード化された絵でなく、世界それ自身だと思いたがる’(Nichols 1981, 11-12)。ゲシュタルト心理学者 −特に、マックス・ウェルトハイマー(Max Wertheimer 1880-1943)、ウォルフガング・ケーラー(Wolfgang Kohler 1887-1967)、そしてクルツ・コフカ(Kurt Koffka 1886-1941)− によれば、人間の視覚的認識にはある普遍的特徴があり、それは記号論的用語では認識のコードと理解することができる。認識における‘図(figure)’と‘地(ground)’という概念は、このグループの心理学者に依るものである。視覚的イメージに向かい合うと、我々の関心が‘背景’(または‘地’)に追いやったものから支配的な形状(明確な輪郭を持った‘図’)を分離する傾向があるように思われる。この例としては、デンマークの心理学者エドガー・ルビン(Edgar Rubin)により発明された有名な二つの意味に取れる絵がある。
このようなイメージは、図と地が曖昧である。図は黒い背景の白い花瓶(または足付きの杯(goblet)、または鳥の水浴び場(bird-bath))または白い背景の影絵の人物像であろうか?そのような場合、認識の集合が作用し、我々は他のものに優先して、一つの解釈を選択する傾向がある(しかし、見える黒または白の量を変えると、一つまたはその他のものに対する先入観を生み出すことができる)。いったん、図を同定すると、輪郭はそれのものとなり、地の前に出てくる。
‘図’と‘地’という用語に加えて、ゲシュタルト心理学者たちは、認識の機構に関する幾つかの基礎的でかつ普遍的な原理(それは、しばしば‘規定(law)’とさえ呼ばれる)に思われるようなものの輪郭を描いた。主なもの(幾つかの用語は、少し変わるが)は以下のものである:近接(proximity)、相似(similarity)、良い連続(good continuation)、閉合(closure)、小さいこと(smallness)、囲まれていること(surroundedness)、対称性(symmetery)、そしてプレグナンツ(pragnanz)である。
近接の原理は、このように示される:
貴方が、たぶん割合早く気が付くことは、これは単なる点の4角形のパターンでなく、むしろ一連の点の列である。近接の原理は、近い特徴は、連合するということである。下は、もう一つの例である。ここでは、点を行でグループ化するだろう。
この原理は、下の例にも適用される。離れている線よりも、近い線を連合しがちである。この例では、近い線の三つの対(右の線は単独である)を、より離れている線の三つの対(左の線は単独である)よりも一緒にする傾向がある。
この原理の重要性は、最初、はっきりしないように見える:その原理がもっとはっきりしてくるのは、それらの相互作用においてである。そのため、認知の機構の第2の主要な原理 −相似− に移る。下の例を、見て欲しい。
ここでは、小さな円と四角形が、水平方向、垂直方向に等間隔に配置されており、近接の原理は働かない。しかし、我々は、円と四角形の列を交互に並べて見てしまう傾向にある。これが、ゲシュタルト心理学者が主張している、相似の原則に依るものである −同じように見える特徴は連合する。二つの異なる繰り返される特徴が無ければ、列または行または両方を見るだろう。
認識機構の第3の原理は、良い連続である。この原理は、滑らかな輪郭は、方向の突然の変化より好まれるということである。例えば、下の図で、a-dそしてc-bまたはa-cとd-bを線として認識するよりは、a-bおよびc-dを線として見る傾向にある。
閉合が認識機構の第4の原理である:‘開いた図’よりも‘閉じた図’を作り出す理解の方が選ばれる。
上の図では、切れ目のある三つの4角形(左側が単独の形になる)の方が、三つの‘おおはり(girder)’(右側が単独になる)より選ばれる傾向がある。この場合、閉合の原理が近接の原理より勝る、というのは、もし角型かっこ(bracket)の形を取り除くと、近接の原理を説明するのに以前用いた図に戻るからである。
認識機構の第5の原理は、小さいことである。より小さな区域が、より大きな背景に対して図として理解される傾向にある。下の図では、この原理により、白の十字より黒の十字を見るようである。
このゲシュタルト原理の説明として、ルビンの花瓶はその占める領域が小さいほど、見やすくなることが主張されている(Coren 他 1994, 377)。下の説明図の下部は、陰画が示されているが、その場合も、この原理がはたらく。囲まれていることの原理に絡ませることを避けるため、4つの絵から、通常使われている広い境界を除いた。小さいことというゲシュタルト原理は、下の図における左の2つの絵では、顔より花瓶の方が見えやすくなるということを示唆している。
対称性の原理は、非対称な背景より、対照的な領域(黒い部分)の方が図として見える傾向にあるということである。
次に、囲まれていることという原理があるが、それによれば、他の部分によって囲まれている領域が図として認識される。
我々は、精神的にこの枠組の中にいるので、上の図を理解することはあまり難しくないだろう。最初、観察者を混乱させるのは、白い領域が、図よりむしろ地であることを仮定することにあるかもしれない。たとえ以前にできなくても、今は‘ネクタイ(TIE)’という言葉を識別することができるようになったに違いない。
認識機構に関するこれらの原理は全て、プレグナンツという統合的な原理に貢献する。それは最も単純で最も安定した理解が選ばれるということである。
認識機構に関するゲシュタルト原理は、我々があいまいな画像を理解する場合、普遍的な方法より一つの方法を採る傾向があることを示唆している。同時に、我々はそのような主張を、その傾向はその他の要因によって生成されるということを受容することであるとして、認める。同様に、ゲシュタルト原理を、認識のほかの側面はそれが学習され、また本来的であるというより、文化的に変わりうる点で、それを受け入れる。ゲシュタルト原理は、世界は単純でなくまた客観的に‘外部’にあるのではなく、認識の過程で構築されるという考えを強化すると見ることができる。Bill Nicholsは次のように、コメントしている。‘我々の頭脳により形成された役に立つ慣例を、実在が本来持っている属性と取り違えてはならない。表象を読むのを学ばなくてはならないように、物理的世界を読むことを学習しなければならない。この能力をいったん育てると(我々はそれを人生の早い時期に行う)、それが自動的または学習無しの過程と誤るのはたやすいことである。そして、それは、本を読む方法や物を見る特定の方法が天然のものであり、非歴史的であり、非文化的なものであると誤って理解するのと同じことである’(Nichols 1981, 12)(Nichols 1981,12)。
我々は、めったに世界を理解する自分自身の慣例的な方法に気付かない。日常の視覚的な認識を、コードとしてもっと気付くようになるには、慎重な努力を必要とする。慣例的な適用は、その介在の痕跡を覆い隠す。しかし、簡単な実験で、手短に視覚認識を‘ひとくくりにすること(bracket)’ができるようになる。これを可能にするためには、数分間、身体を動かさないで一方向を向いて座っている必要がある。
認識をひとくくりにするこの過程は、3次元を2次元に変換するのに慣れた線画を書く人や絵を描く人が熟知していることである。そうでない人にとっては、この小規模な実験は、かなり驚くべきことである。我々の周りの世界の人や対象に関連して視点を変えるときに、見かけの形や寸法の相対的な変化を安定化させる‘認識の恒常性(perceptual constancy)’と呼ばれる心理機構に、日常的に麻痺させられている。そのような分類分けや認識の恒常性がなければ、世界はWilliam Jamesが‘とんでもない、がやがやとした混乱’と呼んだもの以外の何物でもなくなるだろう(James 1890, 488)。認識の恒常性は、‘日常世界の変動性を照合によって、より変化の少ないコードへ変換することを確認する。周りの環境は他のテクストと同じように、読まれるべき一つのテクストとなる。’(Nichols 1981, 26)
‘カッコ付の’認識と日常の認識の主要な違いは次のように要約される(Nichols 1981, 13, 20):
カッコ付意識 Bracketed Perception | 通常認識 Normal Perception |
制限された視界、楕円形、横 約180°、縦 150° | 制限されない視界 |
焦点は1点に対して明確であり、周辺に向かうにつれ、徐々にぼやけていく(焦点の明確さは、その光が、形状と色に対して最高の感度を持つ網膜の中心部分(fovea)に注ぐ空間に対応している)) | 焦点は、至る所、明確である |
平行線が収束するように見える:見る人から向こうに伸びている長方形の面の横方向の側面は収束しているように見える | 平行線は収束せずに、延びる:見る人から向こうに伸びて いる長方形の面の横方向の側面は平行を保つ |
頭を動かすと、対象の形は変形して見える | 頭を動かしても、対象の形は変わらない |
目に見える空間は奥行きを欠く | 目に見える空間が全体に奥行きを欠くことはない |
パターンと感覚、面、辺そして勾配の世界 | 慣れ親しんだ対象と意味の世界/FONT>
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コードという慣例は、記号論における社会的次元を表す:コードは、その環境の利用者にとって慣れ親しんだ一群の慣例であり、それは広い文化的枠組の中で作用する。まさに、スチュアート・ホール(Stuart Hall)が言っているように、‘コードの作用なしには、理解できる言説はない’(Hall 1980, 131)。社会自体が、そのような意味システムに依存している。
コードは、単にコミュニケーションという‘慣例’ではなく、ある領域で作用する互いに関係する複数の慣例からなる手続き的システムである。コードは、記号を、記号表現と記号内容を相関させる意味のあるシステムへ組織化する。コードは、個々の独立したテクストを超越し、テクスト群を理解可能な枠組の中で結び付ける。Stephen Heathは、‘あらゆるコードはシステムであるが、あらゆるシステムがコードという訳ではない’と記している(Heath 1981, 130)。また、彼は次のようにも加えている。‘コードというのは、首尾一貫性、同質性、その体系で分類され、メッセージの異種性に出会った場合は、幾つかのコードを横断して分節される’(同上, p.129)。
コードは、テクストの作成者と解釈者、双方にとって理解のための枠組となる。テクストを作成する場合、我々が習熟しているコードに沿って、記号を選びそして組み合わせる。‘それにより、他の人にそれを読む時、生成されるであろう意味の範囲を制限する’ (Turner 1992, 17)。コードは現象を簡単化し、経験を容易に伝達できるようにする(Gombrich 1982, 35)。テクストを読む時には、適当と思われるコードを参照しながら、記号を解釈する。通常、適切なコードは明白であり、あらゆる種類の文脈的糸口から‘過度に決定される’。テクストの中の記号は、それを解釈するために適したコードへの糸口を具現していると考えられる。ピエール・ギローは、‘絵画の枠や本のカバーは、コードの本質を強調する;美術作品のタイトルは、メッセージの内容よりも採用されたコードを指している場合が多い’(Guiraud 1975, 9)。その意味では、我々は通常、‘本をカバーで判定している’。テクストを、ページの上に表示された方法で詩と確認できる。しばしば‘学術的構成’(例えば、緒言、謝辞、節の見出し、表、図表、注釈、参考文献、文献目録、付録そして索引)は、読者にそれが学術書だと分かるようにする。そのような手がかりは、記号のメタ言語的機能の一部分である。習熟したコードでは、解釈という行為はめったに意識されないが、時々、テクストは読者に、テクストを全体として理解するための適切なコードを確認する前に、 −例えば、(言葉遊びの場合のジョークなどのように)主要な記号表現に対して適切な記号内容を割り当てるなど− もう少ししっかり検討することを求める。
他の惑星からの訪問者が、英語について適切な語彙を有しまた文法に通じていたとして、‘Dogs must be carried on the escalator(エスカレータでは、犬はしっかり捕まえていなければならない)’のような注意書きをどのように理解するか考えてみなさい。エスカレータを使う時は、犬を運ばなければならないのですか?そうしなければ、エスカレータを使うことが禁止されているのですか?Terry Eagletonは、次のようにコメントしている:
それを実現することなしには、最も簡単なテクストを理解するためにさえ、一群の教科書的そして社会的コードに頼ることになる。文学的テクストは、さらにいろいろ要求をする傾向がある。Eagletonは以下のように論じている:
記号学者はコードを明確にし、それにより各コードにおいて意味を生産し解釈する無言の規則や制約を同定しようとする。彼らは、幾つかあるコードをグループに分割すると便利なことを見出した。研究者はそれぞれ、別の分類法を採用し、構造主義者はしばしば‘けちの原理’に従う −それは必要とみなされる最小のグループを探そうとするものである。‘必要性’は目的によって決定される。単純に‘中立’であり、イデオロギー的仮定を欠いた分類法はない。ある研究者はアナログコードとデジタルコードという基本的な分割から、またある研究者は感覚経路による分割から、さらに他の研究者は‘言語的’、‘非言語的’区分から出発している。多くの記号学者が、出発点として人間の言語を採用している。どの社会においても、主要でかつもっとも行き渡っているコードは、その支配的な‘自然’言語であり、そこでは(他のコードと同様に)多くの‘副コード’が存在する。話すという形式と書かれた形式への言語の基本的な副分割は −少なくとも、否が応でもテクストが受け取られた時点で、作者から切り離されるということに関する限りは− しばしば、単なる副コードへの分割というより、異なるコードへの広い分割を表すと認められている。ある研究者のコードは別の人の副コードであり、その区分の価値を示す必要がある。映画制作上のコードについて、Stephen Heathは次のように論じている。‘コードは互いに競合しない;照明法とモンタージュの間には選択はない。選択はあるコードの種々の副コードの間で生じ、それらは相互に排他的な関係にある’(Heath 1981,127)。文体上また個人的なコード(または、個人方言))は、しばしば副コードとして記述される(例えば、Eco 1976,263,272)。色々な種類のコードが重なり合うため、どのテキストや行為の記号論的分析でも、幾つかのコードとそれらの間の関係を考慮する必要がある。コードに関する類型論は記号論の文献の中で見出せる。ここでは、メディア、コミュニケーションや文化研究の文脈で、広く言及されているものを参考として挙げる(この特定の3つのコードによる枠組は、著者独自のものである)。
コードに関するこれら3種類のタイプは、テクストの解釈者が必要とする3つのタイプの知識に広く対応している、つまり、以下の知識である。
記号論的コードの‘強固さ’は、(計算機コードのような)論理的コードの規則に縛られた囲いから、詩のコードのように解釈にたよる漠然としたものまで多様に変化する。ピエール・ギローは、次のように注意している。‘意味作用は多かれ少なかれ、コード化され’、そして幾つかのシステムは‘オープン’であり、‘めったに指示“コード”に値せず、単なる“解釈上の”説明システムにすぎない’(Guiraud 1975, 24)。ギローは、コードは‘明示的な社会的慣例システムであり’、一方、‘解釈学(hermeneutics)’は‘暗黙の、潜在的なそして純粋に偶然的な記号のシステムである’と区分した。‘後者が慣例的でなく社会的でもないということはなく、それらはより緩やかな、ぼんやりしたそしてしばしば意識されない方法で存在するのである’(同上, 41)。(形式的な)コードが‘明示的’であるという彼の主張は、全体的に明示的であると認められているコードが存在すると示唆しているようであり、支持できない。彼は、二つの‘意味作用のレベル’にも言及している。相対的な明確さに基づく記述のスペクトル、その一つの極に技術的コード、もう一つの極に解釈上の実践があるが、それに言及するのがより生産的である。後者のスペクトルの一方の端に、ギローが‘明示的な、社会的コード’として言及したものがあり、そこでは‘意味が、参加者の間での公式的な慣例の結果としてのメッセージのデータになる’(同上, 43-4)。そのようなケースでは、‘メッセージのコードは、暗黙的に送り手によって与えられる’(同上, 65)。スペクトルのもう一方の端に、‘個人的なかつ多かれ少なかれ暗黙的な解釈学があり、そこでは意味は受信者の解釈の結果となる’(同上,43-4)。ギローは、理解する行為を‘詩的な’ものとして言及しており、それは‘システムを利用している受信者、またはそれを使用することによって多かれ少なかれ社会化また慣例化された暗黙的な解釈というシステムによって引き起こされる’(同上,41)。後で、彼は‘解釈学は、受信者によって提供される網の目である(受信者がテクストに適用する哲学的、美学的、文化的網の目)’と付け加えている。ギローの区分はあまりにはっきりしすぎていると認識されているが、それでも、‘理想的タイプ’として、分析には有用である。
文化的実践を研究する時、記号論者は、文化的グループの成員にとって意味を持つ対象や動作を記号として扱い、その文化の中での意味の生成の下に潜むコードという規則や慣例を明確にしようとする。そのようなコードを理解すると、そのコードが適切に作用するためのコード間の関係や文脈が、個々の文化の成員にとって意味することの1部分となる。Marcel Danesiは、‘文化は、1種の“マクロコード”として定義でき、グループの個人が実在を理解するために慣例的に用いる種々のコードにより構成される’と論じている((Danesi 1994a, 18;また、以下をみよ、Danesi 1999, 29, Nichols 1981, 30-1そしてSturrock 1986, 87)。興味のある読者には、文化間の交流に関するテクストが、文化的コードへの有用なガイドとなる(例えば、Samovar & Porter 1988;Gudykunst & Kim 1992; Scollon & Scollon 1995)。
食物は、コードが文化によって変わる典型的な例であり、それは人類学者C・レヴィ=ストロースによる生のものと火をかけたもので取り上げられている(Levi-Strauss 1970)。食物は、自然と文化の干渉に関するはっきりした表明である。食物を消費することは(人間を含めた)全ての動物にとって‘自然な’ことであるが、人間が用いている消費の様態は、人間の文化を区分する役割を持つ。エドムンド・リーチ(Edmund Leach)が言っているように、‘料理というのは、自然を文化に変換する普遍的な手段である’ (Leach 1970, 34)。彼は次のようにも加えている。‘人間は必ずしも食物を料理する必要はなく、そうするのは、彼らが人間であり、獣ではないということを示す象徴的な理由のためである。そのように、火と料理は、文化を自然と区別する基本的な象徴記号である’(同上, 92)。他の動物と違って、異なる文化圏の人間は、何が食べられ、何が食べられないかまた食物はどのように料理すべきかまた何時食べるかを指示する社会的慣例に従う。色々な文化で、ある食べ物を食することを、男性、女性または子供に対して禁止している。このように食べ物を分類することは、社会の階層化に反映されていく。C・レヴィ=ストロースは、階層化への反映は非常に重要だと認めている。
C・レヴィ=ストロースは、最初に‘トーテミズム’に言及し、文化という分類システムは社会的な差異を示すのに役立つコードを構成する、と注意している。彼は、そのようなシステムは認識上の‘網の目’のようであると論じ、それらは特定の内容からは独立している‘差異化の特徴’の上に、構築されていると示唆している。これは、それらを‘それは他のコードに変換できるメッセージを伝達するためのコード、また異なるコードにより受信されたメッセージを、彼らの固有の用語で表現するためのコード’として適したものにしている。そのようなコードは、‘社会的な実在の異なるレベル間で、概念の交換を保証するどんな種類の内容も同化する方法’を構成していると論じている(Levi-Strauss 1974,75-6;また96-7を見よ)。そのようなコードは、‘自然と文化の間の仲立ち’の中にも含まれる(同上, 90-91)。それは、自然の世界での差異を認識するのと同じように、社会での差異をコード化(表現)する方法である(イソップ物語がそうであるといえる)。それらは、自然的な分類と認識されているものを文化的な分類に変換し、文化的な実践を自然的なものに見せることに貢献する。‘神話のシステムとそれが用いている表現の様態は、自然条件と社会条件の間の同質性を確立するのに貢献する。もっと正確には、それは異なる面での意味上の対比を等しくすることを可能とする;地理的、気象的、動物学的、植物学的、工学的、経済的、社会的、儀礼的、そして哲学的’(同上, 93)。北オーストラリアのアーネムランド(Arnhem Land)のムルギン(Murgin:北東アーネムランド)の場合には、神話システムは、次の表に示すように、等価性の実現を可能としている:
純粋な、神聖な | 男性 | りっぱな | 肥沃にする(雨) | 悪い季節 |
汚れた、不敬な | 女性 | 劣った | 肥沃になった(土地) | 良い季節 |
すぐ分かるように、そのようなシステムは矛盾無しには成立せず、C・レヴィ=ストロースは、そのようなシステム内の矛盾が説明の神話を生む −そのようなコードは‘意味をなさねばならない’− と主張している(Levi-Strauss 1974,228)。‘分類システムは言語のレベルに属する’(同上)のに対して、このような枠組は‘単なる言語以上の何ものかである。それは単に、記号間の適合性や非適合性を示すものではない。ある種の様態の行動を規定し、また禁止する基本的な倫理となる。少なくとも、この結論は、一方ではトーテム的な様態の表現と食べ物に関する禁止事項との連合や、他方では異族婚に関する規則との連合から導かれるように思われる’(同上, 97)。C・レヴィ=ストロースの分析的なアプローチは、形式的には共時的なものにとどまり、歴史的次元の研究は含んでいないが、彼は変化の可能性を組み込んでいる:対立は固定されたものではないし、構造は変化する可能性がある。彼は、純粋に共時的な視点からのそのような枠組に重きを置く必要はないと、注意している。‘システムに関する最も簡単でありうる例の2項対立から出発し、この構築は、どちらかの極で新しい用語を組合わせることで進んでいく。それらの用語は対立、関連、またはそれへの相似を表すからである’。このようにして、構造は変化していく(同上, 161)。
Lee Thayerは次のように論じている。‘我々が知るのは世界ではなく、それに関する我々の経験を“共有”できるように構築されている特定のコードである’(Thayer 1982, 30; cf. Lee 1960)。構造主義の理論家達は、言語的なコードが社会的実在を構築また保持するのに主要な役割を果たしている、と主張している。アメリカの言語学者のエドワード・サピアとベンジャミン・リー・ウォーフの主張は、後でウォーフ流の仮説またはサピア−ウォーフの理論(Whorfian hypothesis or Sapir-Whorf theory)と命名された。そのもっとも極端な説では、サピア−ウォーフの仮説は次の二つの相関する原理を関連付けるものとして記述されている:言語決定主義と言語相対主義。この二つの原理を適用すると、ウォーフ流の主題は、非常に異なる発音、文法や意味の区分を持つ人々は、世界に関してまったく異なる認識を持ちまた考え、彼らの世界観は言語によって形成されそして決定される、ということである。1929年の著述で、サピアは古典的な一節で次のように主張した:
この立場は、彼の生徒であるウォーフにより拡張された。1940年の著書の中の、広く引用される一文の中で、次のように宣言している:
サピア−ウォーフという極端な言語決定論者の主張を、現在では、大部分の言語学者は受け入れていない。その批判者は、世界観の差を、言語構造の差異だけでは推論できない、と注意している。ウォーフ流の仮説を、その‘強い’(つまり極端または決定論的な)形で受け入れのは少数の言語論者でけであり、現在では、多くの言語主義者が‘弱い’(もっと穏健な)つまり限定されたウォーフ主義を受け入れている、すなわち、我々が世界を見る方法は、我々が使う言語の種類によって影響されるかもしれないということである。
多分、言語と概念の範疇が文化的に異なる例でもっとよく知られているのは、エスキモーが‘雪’について1ダースの言葉を持っていることである −しばしば、ベンジャミン・リー・ウォーフに帰せられる所説である。実際には、ウォーフは、エスキモーが雪に関して5つ以上の言葉を持っているとは主張していなかったようである((Whorf 1956, 216)Whorf,1956,216)。しかし、最近の研究は、雪に関して、次にような区分を表す16の用語を列挙している、ただし、イヌイットのものでなく、北極に近い森林のコユコン(Koyukon)インデアンのものである:
ここは、我々が使っている言語に組み込まれている範疇によって、どの程度まで世界を認識する方法が影響を受けるかを探求する場ではない。通常はしない区分を指す言葉を英語の中に見出すことができる(これは、雪に関する、一般に認められている言葉の翻訳に見られる)と言えば、充分である。複数の文化グループが、彼らにとって物理的または文化的に重要な差異を表すために多くの単語(または句)を有しているのは、驚くに当たらない。雪に関して多くの単語を持っている‘エスキモー’に関して作り上げられた都市の神話は、‘異国情緒の’文化をロマンチックに描きたいという願望を反映している。しかし、これは、我々が用いている分類が我々の世界観を反映しているだけでなく、ときにはそれに対して本質的な影響を及ぼすという可能性を否定するものではない。
一つの文化において、社会的な差別化は、多数の社会的コードによって‘過度に定義されている(over-determined)’。我々は、社会の成員と、仕事、話し方、衣服、髪型、食慣習、住環境や職業、休みの過ごし方、旅行の仕方等々を介して、意思疎通を行う(Fussell 1984)。言葉の使い方は、社会的アイデンティティの目印として作用する。1954年に、A S C Rossは、いわゆる‘UとNon-U’の英語の使い方を紹介した。彼は、英国の上流階級('U')は、他の社会的階級('Non-U')と、下の表に示すように、単語の使用法によって分けられることを見出した((Crystal 1987, 39)Crystal 1987,39)。興味深いことに、これらのうちの幾つかは、食べ物と食べ方に関するものである。時が経っても、同じような区分が、イギリス社会に存在している。
U | Non-U |
luncheon | dinner |
table-napkin | serviette |
vegetables | greens |
jam | preserve |
pudding | sweet |
sick | ill |
lavatory-paper | toilet-paper |
looking-glass | mirror |
writing-paper | note-paper |
wireless | radio |
英国における言葉の使い方に関する議論で取り上げられことが多い区分は、1960年代に社会学者ベイジル・バーンスタイン(Basil Bernstein)により導入された、いわゆる‘制限されたコード(restrited code)’と‘磨き上げられたコード(elaborated code)’である((Bernstein 1971))。制限されたコードは、堅苦しくない状況で使われ、状況の文脈への依存、型にはまっていること、話し手のそのグループへの一体感、単純な構文、身振りや(‘Isn’t it’のような)決まり文句の質問をしばしば使うことにより特徴付けられる。磨き上げられたコードは、公式的な状況で使用され、文脈に余り依存しないこと、色々な型があること(これには、受動態も含まれる)、より形容詞的であること、構文が比較的複雑であること、代名詞‘I’を使うことにより特徴付けられる。ベイジル・バーンスタインの主張は、中流階級の子供はこれらのコードを両方使い、労働者階級の子供は制限されたコードしか用いない、ということであった。そのようにはっきりした区分と社会的階級との相関は、いまでも、言語学者により広範囲に研究されている((Crystal 1987, 40))。我々は、日常的に、人々の社会的背景を推測するのに、そのような言語的手がかりを用いている。
言語的なコードは、社会的階級ばかりでなく、性的な傾向の指示記号としても作用する。たとえば、‘軍隊生活(camp)’用語であり、また英国の劇のサークルでゲイの人たちによって使われた'Polari'がある。Polariは、1960年代後半のBBCラジオのAround the Horneの‘JuilianとSandy’という役柄でよく知られるようになった。
Polari | Standard English | Polari | Standard English |
bijou | small | nanti | no, nothing, not |
bold | outrageous, flamboyant | omi | man |
bona | good | omi-palone | gay man |
butch | masculine | palone | girl, young woman |
drag | clothes, to dress | polari | speak, chat, speech, language |
eek | face | riah | hair |
fantabulosa | excellent | trade | casual sex |
lally | leg | troll | go, walk, wander |
latty | house, home, accommodation | varda | see, look, a look |
社会的な差異化は、言語的コードだけでなく、非言語的コードでも観察される。ここでは、非言語的コードを概観するすることが目的でない。興味ある読者は、古典的な教科書や文献への専門家による案内を見ると良い(例えば、 Hall 1959; Hall 1966; Argyle 1969; Birdwhistell 1971; Argyle 1983; Argyle 1988))。このテクストの文脈では、幾つかの例があれば、非言語コードの重要性を説明するのに充分である。
‘適切な’衣服に対する社会的な慣例は、明らかに‘服装のコード’と結び付いている。多くの職業組織や学校のような団体では、公式の服装コードが一連の規則として明文化されている(そしてそれを実践することは、時たま破壊的な挑戦を招く)。結婚式、葬式、晩餐会などの公式行事には、‘適切な’服装についての強い期待がある。その他の文脈では、着る人には何を着るか広い選択権があり、そして着た洋服は、出席する行事や働いている団体についてよりも、‘彼らについて、より多くのことを語っている’ように思える。洋服を着る流儀は、社会的な背景やサブカルチャーへの忠誠の証となる。これは、特に若い人のサブカルチャーにおいて顕著である。例えば、1950年代の英国においては、‘不良少年(Teddy boys)’や‘不良(Teds)’は、モールスキンやサテンの襟のカーテンのジャケット、配水管ズボン、クレープ底のスエードの靴や靴紐のネクタイを身につけていた;髪型は優雅な‘D-A’であり、しばしば頬髯や巻き毛をしていた。モッド(mods)、ロッカーズ(rockers)、スキンヘッドやピッピー、パンクスやゴート(goths)のような英国のサブカルチャーは、洋服、髪型や音楽に関して独特の好みを有していた。第2次大戦後の英国の若者文化についての2つの古典的な研究は、スチュアート・ホールとTony Jeffersonの儀式を通しての抵抗(Resuistance through RitualsとDick Hebdigeのサブカルチャー:スタイルの意味(Subculture:The Meaning of Style)であるHall & Jefferson 1976; Hebdige 1979。Marcel Danesiは、カナダでの若者文化の社会的コードについての記号論的考察を提示している((Danesi 1994b)Danesi 1994b)。
‘知覚の制度’を規制する非言語的コードは、特に興味深い。例えば、特定の文化的文脈では、ほとんど暗黙的である‘見るコード’があり、それは人が他の人をどのように見るかを規定する(それはある種の見ることに関するタブーを含む)。そのようなコードは、文化的文脈がコード自身のものであるとき、透明なものに後退する傾向にある。‘子供達は、“私を見て”、知らない人をじっと見ないまた身体のある部分を見ないようにと指示される...。人は上品に見なくてはならず、不適切な場所で不適切な人、つまり障害者を見てはならない’(Argyle 1988, 158)。ケニヤのルオ(Luo)では、義理の母親を見てはならない:ナイジェリアでは、地位の高い人を見てはならない;南アメリカのインディアンの間では、会話している間、相手を見てはならないとされている;日本では、顔でなく首を見るべきだとされている;等々(Argyle 1983, 95)。
注視の期間も、文化的に変わりうる;アラブ、ラテン・アメリカそして南欧のような‘接触文化(contact culture)’では、人は英国人またはアメリカの白人よりも見るが、アメリカの黒人は余り見ない((同上, 158))。接触文化では、あまりにも少ししか見ないということは不誠実で、正直でなく、上品でないと見られるが、非接触文化では、余り注視する(‘じっと見る’)ことは嫌悪、無礼、侮辱を意味する(Argyle 1988, 165; Argyle 1983, 95)。文化的な慣例の領域のうちで、注視を避ける人は神経質で緊張しており、はっきりしないとみられ、長く見る人は友好的で自信があるようにみられる傾向にある。そのようなコードは時々、わざと破られる。1960年代のアメリカ合衆国では、頑迷な白人は、黒人に対して犠牲を人格化しないように計画し、持続された‘憎しみの凝視’を採りいれた((Goffman 1969))。
見るコードが性の差別化に関連すると、重要なものとなる。ある婦人は男性の友人にこう報告している:私が男性について本当にねたむことは、見る権利です。彼女は、公衆の場で、男性は自由に女性を見ることができるが、女性はそっと、ちらっと見ることしかできないと報告している(Dyer 1992, 103)。Brain Prangerは‘ゲイの注視’に関する調査結果を報告している。
視線のコードと同様に‘接触のコード’もあるが、それは文化によって変わってくる。Barnlandの1975年の研究では、米国また日本の被調査者が異性の友達、同性の友達、父母によって接触される身体の部分を描いている(Barnlund 1975, Argyle 1988, 217-18に記載)。その結果得られた身体マップはこの点での、文化の規準での主な違いを示している。それによると日本人の接触される身体の面積は、米国の場合よりずっと制限されている。米国の学生に関するそれ以前の調査では、他の色々な人たちによって接触される回数またパターンは女性と男性により異なることが示されている(Jourard 1966, Argyle 1983, 37に記載)。生徒は、母親と異性の友達にもっとも接触されていると報告している;父親は、手以外にはめったに触らない。社会的コードは物理的接触の頻度を左右する。Jourardはまた、いろいろな都市での1時間あたりの接触回数を報告している:サン・ジュアン(プエルトリコ)180;パリ110;ゲインズビル(Gainnsville)(フロリダ)2;ロンドン0(Argyle 1969, 93)に記載)。これについては、‘伝達の様態(mode of adress)’を議論するとき、近接に関するエドワード.T.ホールの関連する研究の中で触れる。
コードは文化や社会グループで異なるだけでなく、歴史的にも変化する。例えば、Jourardによって報告された、1960年代の世界中の色々な都市での接触頻度が、今大きく変わっているかどうか知ることは興味深い。もちろん、ソシュールは共時的分析に着目し、言語の発達は共時的状態の連続であると見ていた。同様に、ローマン・ヤコブソンと彼の同僚のユーリ・チニャノフ(Yuri Tynyanov)は、文学の歴史を階層的システムと見ていた。そこではどの点においても、形相と範疇が支配的であり、他は副次的である。主要な形相が陳腐になったときは、副次的な範疇がその機能を引き継ぐ。歴史的変化は、システム内の関連を移すことである(Eagleton 1983, 111)。ソシュールとは違って、フランスの知の歴史学者であるミシェル・フーコーは同質的な全体としての‘言語システム’には注目せず、特定の‘談話’と‘推論行為’に注目している。歴史的な時代は、それぞれ特有の知の体系(エピステーメーepuisteme)を有している −その認識論を形成するいろいろな推論行為を結合する一連の関係である。フーコーにとっては、科学、法律、政治や薬学における談話は、それらの関心事に適切なものとして定義される存在論的な(ontological)領域(または論題)の中での、実在の特定の形相を構築また保持するための表現コードのシステムである。特定の‘推論の形成’は、特定の歴史的また社会−文化的文脈で支配的であり、それ自身の‘真理の制度’を保持する。推論の位置の範囲は、どの時点でも有効であり、多くの(経済的、政治的、性的等の)決定要因を反映している。フーコーは、権力の関係に着目し、いくつかの解釈の共同体の談話や記号表現が優先されまた支配的であり、他は枠外におかれるとしている。主要なコードを用いないものは、‘部外者’としてマークされる −それは他の文化からの見知らぬ人やその文化での少数派を含む。一方、少数派と感じている人々は、主流となる社会的コードの中での類似のニュアンスに敏感である −もし、ストレートな男性の典型的な挙動を記述しようとしたら、ゲイの男性にそれを依頼して見ると良い。
我々は、特定の社会的−文化的文脈や我々がそれにより社会化される規則の中で、支配的なコードや慣例の用語で世界を読解することを学ぶ。(John Bergerの句を用いれば)‘理解する方法(way of seeing)’を採り入れる過程で、また‘本人の同一性(identity)’を採り入れる。実在の理解におけるもっとも重要な恒久性は、我々が個人として誰であるかという感覚である。恒久性として自分自身を感じることは社会的構築物であり、文化の中で、大部分の干渉し合うコードによって‘過度に決定’される(Berger & Luckmann 1967;Burr 1995)。‘役割、慣例、態度、言語は −程度の差はあるが− 反復されるために内面化され、変わらずに繰り返すことにより、首尾一貫した場所が次第に出現してくる:それが自我である。自我は、これらの内面化によっては充分に決定されないが、、それらがなければ絶対に決定されない’(Nichols 1981, 30)。自我は社会的な構築物であるいう考えに出会った時には、それが直感に反するものであることに気がつく。我々は、通常、自分が独自の‘人格’を有する自律的な個人であることを当然と思っている。後で、‘主体’として位置付けるという考えにまた触れる。ただ簡単に、‘社会は、その成員が、基礎となる虚構、神話またはコードを当然のこととして認めるかどうかに依存している’(Nichols 1981, 30)。文化によって変わる認識のコードは、典型的に暗黙的なものであり、それらが果たす役割に気付かない。最も広く行き渡っている、支配的なコードを使う人たちにとっては、そのコードの中で生成される意味は、‘自明であり’、‘自然なもの’に見える。スチュアート・ホールは次のようにコメントしている:
これらのコードを学習することには、実在の構築にそれらが干渉していることを知られずに、人々の中に組み込まれている価値、仮定、そして‘世界観’を採用することが含まれる。テクストの理解に関連するそのようなコードの存在は、、異なる文化の中で、異なる文化のために制作されたテクストを精査することにより、より明確になる。例として、我々自身の国からの、他の国の大衆市場のために、我々の国固有のやり方で制作した広告が挙げられる。そのようなテクストを意図された方法で理解するには、そのテクストを制作した特定の文化的文脈に関連した‘文化的資格’を必要とする。それが視覚的テクストであっても、文化的資格を必要とする。 (Scott 1994a; Scott 1994b; McQuarrie & Mick, 1999)
John Sturrockは次のように論じている。
記号を理解することは、解釈者に馴染みのある適切なコードという規則を適用することも含んでいる。これが、パースが仮説推論(abduction)と呼んだ過程である(Mick 1986, 199 および Hervey 1982, 19-20)を見よ)。記号表現に出会ったとき、我々はそれを知っている規則の実例であると仮定し、次にその規則を適用し、その記号が何を意味しているか推論する(Eco 1976, 131)。David Mickが有用な例を提示している。ある婦人が、三つの栄養的にバランスの取れた食べ物を毎日、彼女の家族に出している広告を見ると、このようなことをする婦人は良い母親だという文化的に獲得された規則を具体化し、この婦人は良い母親だと推測する(Mick 1986, 199)。Mickが言っているように、仮説推論は、多少でも知っている人や物事についてなされたとき、特に強力である(例えば、新しい隣人、広告の中の虚構の人物などである)。
構造主義記号論者の共時的視点は、コードは静的であるという印象を与える。しかし、コードには起源があり、進化する。そしてその進化を研究することは、記号論的に正統な努力である。ギローは、暗黙的な理解のシステムが、コードの状態を獲得する‘成文化’という逐次的な過程が存在すると主張した(同上, 41)。コードは動的なシステムであり、時間とともに変化し、社会−文化的にまた歴史的に位置付けられる。成文化は、慣例が確立する過程である。例えば、Metzは、ハリウッド映画で、白い帽子が‘善玉’のカウボーイの記号表現として、どのように成文化されるかを示している;時には、慣例は使われすぎ、捨てられる( (Metz 1974))。映画での慣例の変化を概観するには、Carey 1974、Carey 1982 やSalt 1983を見ると良い。William Leissと彼の同僚は、雑誌の広告のコードの経過について優れた報告をしている(Leiss et al. 1990, Chapter 9)。
歴史的観点から見ると、新しい媒体に関する多くのコードは関連する現存コードから進化している(例えば、テレビ技術の多くは、その元は映画や写真にある)。新しい慣例は、媒体と技術的可能性とその利用に適合するように発展する。幾つかのコードは、特定の媒体(または、少なくともその媒体の特性)特有のものであるか、密接に関連する媒体特有のもの(例えば、映画やテレビでの‘溶暗(次第に暗くなっていく)’)である;他のものは、幾つかの媒体で共有される(または似てくる)(例えば、場面の断絶);そして、あるものは媒体と結びつかない文化的実践から引き出される(例えば、身体言語)(Monaco 1981, 146ff)。あるものは、特定の領域の媒体にもっと特有のものである。あるものはもっと広く、科学の領域(‘論理的コード’、それは共示や解釈の広がりを抑制する)や美術の領域(‘美学的コード’、共示と解釈の広がりを促す)と関連している。しかし、そのような差異は種類の差異というよりは程度の差異である。
全てのテクストは、コードや副コードに沿って組織された記号のシステムであり、ある価値、姿勢、信頼、仮定や実践を反映している。テクストのコードは、テクストの意味を決定しないで支配的なコードがそれらを制約する傾向にある。社会的な慣例は、個人が記号に意味させようとすることをなんでも意味できるものではない、ことを保障する。コードを使うことは、スチュアート・ホールが‘優先される読み方(a preferred reading)’と呼んだものに我々を導き、ウンベルト・エーコが‘常軌を逸したデコーディング’と言ったものから遠ざける。しかし、媒体のテクストは、解釈にとって受け入れられる範囲まで変わりうる (Hall 1980, 134)。
テクストのコードに関する最も基礎的な種類の一つは、類型(ジャンル)(genre)に関連している。類型(ジャンル)に関する伝統的な定義は、それらは(テーマや背景などの)内容に関する特定の慣例を構成、そして/または、テクストに属し、テクストに共有される(構造や文体を含む)様式を構成する、という考えに基づくものである。しかし、このように類型(ジャンル)を定義するのは、問題が多い。例えば、類型(ジャンル)は重なり合い、そしてテクストは一つ以上の類型(ジャンル)を有するのが普通である。予め決められたある特定の類型から逸脱したものを見出すのはそれほどむずかしいことではない。さらに、共時的分析に関する構造主義者の関心は、類型(ジャンル)が常に変化するという慣例を無視している。
種々の媒体における類型(ジャンル)の分類法を概観することは、この本の範囲ではないが、主要な複数の媒体にまたがる区分について言及してみることは価値があると思われる。公共図書館という組織体は、類型(ジャンル)に関する現在の最も基礎的な区分はフィクションとノンフィクションの間にあることを示唆している −その分類は様相判定(modality judgement)の重要性を浮き彫りにする。そのような明らかに基礎的な区分でさえ、その区分を自分の本棚にある本や夜のテレビ番組に適用してみれば、そのまま使えるものではないことは明らかである。もう一つの二項区分は、使っている言語の種類によるものである:韻文(poetry)と散文(prose) −後者の‘規範’については、いみじくもMolicreの Monsieur Jourdanが言っている:‘大変だ!そうと知らずに、40年以上散文を使っていた’。しばしば‘詩的’と見なされている文学的散文についても、灰色の領域がある。これは、図書館員、批評家や学者が、単なる‘虚構’にたいして、‘文学’とは何であるかをどうやって決めるかということと関連してくる。コードの類型学について言えば、一般的に、類型(ジャンル)に関する分類法は思想的に中立ではあり得ない。伝統的な修辞学では、言説を4つの種類に区分してきた:説明、論議、記述そして話(Brooks & Warren 1972, 44)。本来の目的に関連したこれら4つの様式は、異なる類型(ジャンル)と見なされてきた(例えば、Fairclough 1995, 88)。しかし、テクストはしばしばこれらの様式の組合せを含み、それらは多分、‘様態(mode)’と考えるのが良いと思われる。類型(ジャンル)としてもっと広く記述されているのは、Hayden Whiteが歴史編集の研究の中でのNorthrop Fryeから採用した4つの‘小説や劇のすじ(emplotment)の様態’である:ロマンス、悲劇、コメディそして風刺(White 1973)。類型(ジャンル)を分類するのは理解の枠組としては有用かもしれないが、広い範囲のテクストを適切に表現できるものではない。
そのような理論的問題点はあるが、(特定の時点で)いろいろな認識の共同体が、(多少、いい加減で流動的かも知れないが、)なにがそれらの目的に適した主な類型(ジャンル)であるかに関しての取り決められた合意のもとで作用している。テレビ番組の雑誌では必ず、放送される番組に分野の名称を付ける。左の図は、英国でのそのような雑誌 What’s ON TV で、1993年の数ヶ月に使われた名称とその関係が術語によって示されている。同じことのもっと基本的な変形は、ビデオ・レンタル店の名前が貼られた棚である。読者も、今住んでいるところでの映画の分野の区別の仕方をチェックしてみると、面白いかもしれない。
類型コードに関しては、テキスト的特徴に関連しているように思われるものより、ずっと多くのものがあるが、使用者によるものとされている差異を示す特性について考察してみるのは役に立つかもしれない。例えば、映画の場合には、研究者によって挙げられているテクスト的な特徴は以下のようなものである:
映画のある類型(ジャンル)は、主題によって決められ(例えば、探偵映画)、あるものは背景(例えば、西部劇)そしてまた対話の形体(例えば、ミュージカル)によっても決められる傾向がある。古典的な類型(ジャンル)の中に位置付けるのが難しいのは、雰囲気(mood)と風潮(tone)である(それらはfilm noirの主要な特徴である)。テクスト的特徴に加えて、(どの媒体においても)異なる類型(ジャンル)は、目的、楽しみ、聴衆、包含の様態、解釈の形体やテクストと読者との、異なる関係をもたらす。伝統的な価値では目立たず、また同時代的価値でのテクスト的特徴というよりはテクスト−読者の関係に付与されている特に重要な特徴は、伝達の様態(mode of adress)であり、そこには聴衆に関する、例えば‘理想的な’視聴者は男性であるという仮定が組み込まれている(ここでの通常の類型(ジャンル)は、階級、年齢、性別そして人種である)。この重要な議論は、後で触れることになる。
ロラン・バルトは、書物零度のエクチュール(Degree Zero)の中で、(17世紀半ばから19世紀半ばの)フランスの書物の古典的なテクスト・コードは、そのようなコードは自明でありまた実在の中立、無害かつ客観的な反映であることを、示唆するために用いられていたということを示そうとした(つまり、コードの作用は隠されていた)。バルトは次のようにも論じている。これらのコードは、様式の‘零度’という幻影を生む一方、ブルジョアの世界観に基づく実在を作り出し、またブルジョアの価値が自明であるということを密かに広めるという目的にも貢献していた(Barthes 1953; Hawkes 1977, 107-108)。彼の評論‘イメージの修辞(Rhetoric of Image)’(1964)で、バルトは写真という媒体に関連して、この議論の延長線上で、それは伝達または意味するというより、記録するように見えることで、ある思想上の役割を果たすと論じている。写真は、‘本来的に、文化の記号を確立し‥‥与えられた意味の表面の下に構築された意味を隠す’(Barthes 1977, 45-6)。多くの研究者がこの考えを映画やテレビに拡張した。例えば、Gerard LeBlancは次のように、コメントしている;
‘実在的’なテクストのコードは、それでもやはり慣例的である。全ての表現は、記号のシステムである:それらは、‘表現する’よりむしろ意味する。それは‘実在’というより、コードに沿ってそれを行う。ルネッサンスから19世紀まで、西欧の美術は模倣や表現を目的とするものが主体であった。それは、大衆文化ではまだ一般的であるが。そのような美術は意味システムとしての地位を拒否し、前から存在し表現という行為から独立に存在すると考えられている世界を表現しようとする。実在主義は、媒体を、道具としては、実在を表現するための中立的手段とみなす。記号内容は、記号表現を犠牲にして、前面に出てくる。実在主義的表現の実践は、テクストを生成する過程を隠し、あたかもそれらが‘人間の手に触れられていない’生活の断面のようにみせる。Catherine Belseyが記しているように、‘実在主義がもっとらしいのは世界を反映しているからでなく、それが(漠然と)馴染みのあるものから構築されているからである’(Belsey 1980, 47)。皮肉なことに、実在主義テクストの‘自然さ’は、それらが‘実在の反映’から生じるのではなく、他のテクストから導かれたコードを使っているからである。特定の記号的実践が馴染みのあるものになるということは、それらの媒介を見えないものにする傾向がある。実在主義的テクストにある馴染みのあるものを認識することは、理解することに関する我々の方法が‘客観的’であるということを確実なものにしていく。
しかし、種々の実在主義コードが、必ずしも最初から馴染みのあるものという訳ではでない。絵画の文脈で、美術史家エルンスト・ゴンブリッチは、(例えば、ジョーン・コンスタブルに関連して)今では‘殆ど写真的’と見える美術的コードが最初のころ、いかに奇妙で過激に捉えられたかで説明している(Gombrich 1977)(Gombrich 1977)。エーコは、印象派の絵を最初に見た人々が、表現されている主題を認識できず、実際の生活はこのようでないと宣言した、と付け加えている(Eco 1976, 254; Gombrich 1982, 279)。殆どの人たちは、自然の中にある色の付いた影を認識していなかった(Gombrich 1982, 27, 30, 34)。映画では、‘無声映画での、身振りのコードと俳優の身体的また表情の表現は、それらが作成されまた見られた時代の実在主義を共示している慣例に属している’が(Bignell 1997, 193)、現在では、そのようなコードは‘非実在的’ものを代表している。アメリカ映画制作のパイオニアであるD W グリフィス(Griffith)は、最初にクローズ・アップの使用を提案したとき、プロデューサは彼に、他の俳優が見えないので、観客を当惑させるだろうと警告した(Rosenblum & Karen 1979, 37-8)。表現の‘実在的’様態として評価されるものは、文化的にまた歴史的にも変化する。例えば、現在の西欧の観客にとっては、アメリカ映画の慣例は、現在のインド映画の慣例より‘実在的’だと見える。というのはインド映画はあまり馴染みのないためである。同じ文化でも、歴史的時間が経つと、特定のコードは馴染みのないものとなり、何世紀か前に作られたテクストを見ると、そのコードの不可思議さに衝撃を受ける −その保全システムは、ずっと前に廃止されている。ネルソン・グッドマンは次のように言っている:‘実在主義は相対的であり、その文化にとって標準となる表現システムやその時代の人々によって決定される’(Goodman 1968, 37)。
前に言ったように、パースは(編集されていない)写真的媒体の記号を(類像的よりも)指標的だと言っている −それは、記号表現は単純に‘記号内容’に似ている訳でなく、機械的な記録であり、それらの(媒体の限界内での)再生であることを意味している。John Bergerは1968年に、写真は‘見られる物’の‘自動的な記録’であり、‘写真はそれ自身の言語を持たない’と言っている(Tagg 1988, 187)で記述されている)。ロラン・バルトは、よく知られているように、‘写真のメッセージ(The Photographic Message)’で、‘写真の像は、‥‥コードのないメッセージ’だと宣言している(Barthes 1977, 17)。この文章はよく誤解されるので、この随筆と3年後に出版された次の随筆を参照しながら、その文脈をはっきりさせた方が良いと思われる −‘イメージの修辞(The Retoric of the Image)’((同上, 32-51))。バルトは、‘媒体の絶対的にアナログ的、つまり連続的な特質’に言及している (同上, 20)。彼は問う、‘(デジタル的コードの対立として)アナログ的なコードを思い浮かべることができるだろうか?’((同上, 32))。記号表現とそれにより意味されるものの関係は、言語のように恣意的ではない (同上, 35)。彼は、写真には機械的な変形(実際より良く見せる、遠近法、比率そして色彩)や人間の介入(対象の選択、枠組、構成、光学的視点、距離、角度、照明、焦点、シャッター速度、露光時間、印刷そして‘トリック効果’)があることを認めている。しかし、写真は、コードが果たすような、規則に基づいた変換は行わない(同上, 17, 20-25, 36, 43, 44)。‘写真においては、 −少なくても、言語的メッセージのレベルでは− 記号内容の記号表現に対する関係は、“変換”のそれではなく、“記録”である’。媒体の指標的特性に言及して、画像は‘機械的に補足され’、‘客観性’とい神話を強化する(同上, 44)。図形や絵画と違って、写真は‘あらゆるもの’を再生する:それは対象の‘中に’介入できない(ただし、トリック効果を除く)(同上, 43)。‘実在から写真に移動するためには、この実在をある単位に分割し、それらの単位を、係わりあっている対象とは本質的に異なる記号に組み上げることは、決して必要でない;対象とその像の間に、コードを仕立てる必要はない’(同上, 17)(同上,17)。結論として、写真は言葉に変換できないと、述べている。
しかしながら、‘全ての記号は、コードを想定しており’、指示義という‘字義的な’レベルより上では、共示義的なコードが見出せる。彼は次のようにも述べている。‘制作過程では’、‘報道写真は職業的または思想的規範によって、影響され、選択され、計画され、制作され、処理される対象であり’、‘知覚のレベル’では、写真は‘認識され受容されるだけでなく、それを消費する大衆によって、読まれ、記号の伝統的な蓄積と結び付けられる’(同上, 19)。写真を読むことは、それを‘修辞学’に関連付けることを含んでいる (同上, 18, 19)。既に述べられている写真の技術に加えて、例えば、次のようなものの意味する機能にも触れている:姿勢、表情や身振り;描かれた対象や背景により引き起こされる連合;例えば雑誌中での、写真の順序(それを彼は‘文法’と見ていた);そして、それに添えられているテクストとの関連(同上, 21-5)。彼は次のようにも付け加えている。‘共示義の助けを借りれば、写真の読解は‥‥常に歴史的である;それは、真の言語に関する事項のように、読者の“知識”に依存し、記号を学んだ場合のみ理解することができる’(ibid., 28)。
このことから、写真を作成したり、解読したりすることにはコードが含まれていないということを彼が意味したのだと示唆することは、‘写真的な画像は‥‥コードのないメッセージである’というバルトの言明の、明らかに誤った解釈であると言える。彼の主張は、写真の画像それ自体は、基本的な‘意味単位’に変換できるようには(今のところ)思えないということである。写真は純粋に指示義的というのではなく、‘写真の“指示義”的資格は‥‥神話になる機会を持っている(これらは、常識が写真に付与している特性である)’と宣言している。アナログ的画像自体のレベルでは、共示義的コードは非明示であり、ただ推測するだけであるが、それでもやはり‘能動的’であると確信していた(同上, 19)。ブルーナーとピアジェに言及して、彼は‘直接的な類型化なしの認識はない’という可能性について注意している(同上, 28)。写真を読むことは、読む人の文化、世界に関する知識そして倫理的・思想的立場に、密接に依存する(同上, 29)。バルトは、‘写真を見ている人は、認識的なメッセージと文化的なメッセージを、一緒にまた同時に受け取る’とも言っている (ibid., 36)。
バルトは、フォト・ジャーナリズムの中にある直感的コードについては触れなかった。バルトの洞察に共鳴して、英国の社会学者スチュワート・ホール(Stuart Hall)は、報道写真の思想的特質を強調している。
記号学者の多くは、写真は視覚的コードを含んでいるし、映画やテレビは視覚的また聴覚的コードの両者を含んでいることを強調する。John Taggは、‘カメラは決して中立的でないし、それが作成する表現は高度にコード化されている’と論じている(Tagg 1988, 63-4; cf. 187Tagg 1986)。映画やテレビのコードは以下のようなものを含んでいる:類型(ジャンル);カメラワーク(撮影の距離、焦点、レンズの動き、角度、レンズの選択、構成);編集(画面の切り替えや溶暗、切り替え速度やリズム);時間の操作(圧縮、フラッシュバック<場面の瞬間的後戻り>、フラッシュフォワード<フラッシュバックの逆?>、スローモーション);照明;色彩;音(サウンドトラック、音楽);描写;そして物語の様式。Christian Metzは、次のものを付け加えている。著者の様式、サブコードとして識別されるもの、ここではサブコードはあるコードの中で、特に選択されるものである(例えば、類型(ジャンル)の中の西部劇、照明のうちの自然主義的または印象派的照明というサブコード)。統語的次元は、異なるコードやサブコードの組み合わせの関係であり、範列的次元は、あるコードの中からの特定のサブコードを映画制作者が選ぶことであった。Metzが言っているように、‘映画(film)は、隅から隅まで“劇映画(cinema)”と言うわけでなく’(Nth 1990, 468で述べられている)、映画やテレビ番組にはこれらの媒体に特有ではない多くのコードが含まれている。
写真的また映画的コードのあるものは恣意的であるが、‘写実的’な写真や映画で採用されているコードは、‘物理的な世界に遭遇した時に使用される認識上の手がかりを再生産し、またその手がかりを関連付ける’(Nichols 1981, 35; またMessaris 1982 and 1994を見よ)。これが、認識された‘実在主義’の主要な根拠である。類像的記号の中でさえ、‘実在’の記述は、学習されてきた種々のコードを含むが、経験とともに、それらは透明かつ明白なものとして、当たり前のこととなる。エーコは、そのような記号は、他の記号より‘慣例的’でないと考えるのは、誤りであると述べている (Eco 1976, 190ff):写真や映画でさえ、慣例的なコードを含む。しかし、Paul Messarisは表現上の視覚的コード(それは、線画や絵画を含む)という形についての慣例は‘恣意的’ではないと強調している(Messaris 1994)、そして、エルンスト・ゴンブリッチは、ネルソン・グッドマンの拠りどころである‘極端な慣例主義’に対する批判を提示し(Gombrich 1982, 278-297)、‘いわゆる、視覚的イメージという慣例は、これまで習ってきたことに対して、易しいか難しいかによって変わる’ (Gombrich 1982, 283) −それは、相対的な慣例の用語を用いて記号表現−記号内容をランク付けするパースの方法に近い考え方である− ことを強調している。
記号学者はしばしば、映画またテレビを‘読む’と言う −映画の画像はデコーディングをまったく必要としないので、それは奇妙な考えのように思える。スクリーンにないものを人が見ている場面に出会うと、我々は通常、次の場面が彼が見ていたものだと解釈する。有名な映画編集者のRaliph Rosenblumによって提示された、次の例を検討してみよう。最初の場面では、男性が‘真夜中に、突然目を覚まし、ベッドに起き上がり、前をじっと見て、鼻をひくひく動かしている’。もし、次の場面が‘部屋の中で、二人の男が燃え上がった炎と必死に闘っているものであるなら、見ている人は、ベッドの男が、千里眼、警告する夢または煙の匂いによって、危険に気付いたと思うだろう’。そうではなく、最初の場面から、‘夫を精神病院に入れるという彼女の決定を自己弁護している心痛の妻の姿に移るなら、見ている人は、男の人は彼女の夫であり、劇的な緊張が二人の取り巻いていると理解するだろう’。もし、それがヒッチコック映画なら、‘男性とその妻が並んでいることは、見ている人の心に、婦人が不正なことをしているのではないかとの疑問を抱かせるだろう’。このような形式の編集は、二つの連続した場面の間の関連だけでなく、時には類型(ジャンル)にまで、我々の目を向けさせる。もし、満月の前に漂う雲の映像に出会ったら、‘狼男’の冒険物を期待していることを知るだろう (Rosenblum & Karen 1979, 2)。
そのような解釈は、‘自明’ではない:それらは映画の編集コードの特徴である。そのようなコードは非常に若いときに内在化されるので、その存在に気付かないようになる。いったんそのコードを知ると、それを解読することはほとんど自動的となり、そのコードは後退して、見えなくなる。この特定の慣例は、アイライン・マッチ(eyeline match:スクリーンの外を見ている人から、その人が見ているものへのショットの変化)として知られ、‘継続システム(the continuity system)’または‘見えない編集(invisible editing)’として知られている、映画やテレビの物語の主要な編集コードの一部である(Reisz & Millar 1972; Bordwell et al. 1988, Chapter 16; Bordwell & Thompson 1993, 261ff))。コードの重要でない要素は時間とともに修正され、大部分の主要な要素は、数十年前にそれが出来たときのままでいる。このコードは最初は、ハリウッド映画で開発されたが、いまでは殆どの劇映画やテレビのドラマで、日常的に使われている。編集は、その物語を支配するというより、支援する:物語とその登場人物(the characters)が、注目の中心である。今や、数秒ごとにカット(cut:場面変換)が入るが、それらは目立たないように意図されている。その技術は、編集は常に必要とされまたある特定の方法で語りたいという欲望の結果というよりは、カメラが記録した‘実在世界’での出来事によって動機付けられているという印象を与える。その‘継ぎ目の無さ(seamlessness)’は‘実在性(realism)’を納得させようとするが、コードは技術的な慣例の総合的なシステムである。これらの慣例は、見ている人が2次元のスクリーンから、そこに吸収されるもっともらしい3次元の世界に転移するのを支援するのに役立つ。
主な劇映画の慣例として、確定ショット(establishing shot)が使われる:新しい場面への変換(cut)では、まず遠くから撮影した画面を見せられ、我々はそれにより空間全体を見渡すことができる −その後、その場面の詳細に焦点をあてた‘挿入(cut-in)’ショットが続く。再確定ショット(re-establishing shot)は、必要に応じて、新しい登場人物が表れた場合などで使われる。
見ている人が、ある場面の空間構成を理解できるようにするためのもう一つの主要な慣例は、いわゆる180°規則(180°rule)である。連続した画面は、‘動作軸(axis of action)’の両側からは撮らない。というのは、これはスクリーン上では見かけ上、方向が変わったようになるからである。例えば、スクリーン上を右から左に移動している登場人物は、左から右に移動していくようには撮らない。これは、見ている人が動作との関連でどこにいるかを確定するのに役だつ。対話している話し手を別々に撮っている場合、一人はいつも左側に、もう一人はいつも右側のようにする。電話で話している場合でも、登場人物は互いに向き合っているように配置されることに注意しよう。
主観的視点ショット(point-of-view(POV))では、カメラは(通常は手短に)登場人物の主観的視点が与えられるような空間位置に設置される。これは、二人の登場人物でショットを変更するような形でなされる −この技術はショット/逆ショット(shot/reverse shot)として知られている。いったん、‘動作軸’が確立されると、逆ショットへの変更は、見ている人を会話している人の間を行ったり来たりさせるようになる(適合ショット(mached shot)は、同じものを撮影し、枠取りしている)。そのような順序では、これらのショットの幾つかは、反応ショット(reaction shot)である。これまで述べた技術は全て、同じ登場人物はいつも、そのスクリーンの同じ部品であると言うことを確実にするという目標を反映している。
このコードは物語を目だつようにさせるため、動機付けされたカット(motivated cut)と呼ばれる:光景や場面の変更は、動作がそれを必要としまた見ている人がそれを期待している場合のみ生じる。ある距離、そして/または、ある角度からほかのものへの場面に転換したとき、それは動作に適合している:場面転換(cut:背景は同じで、写している対象を変えるか、対象は変えないで背景を変える)は、通常、主題が動く時、なされる。見ている人はその動作によって、場面転換に気が付かない。ジャンプ・カット(jump cut)は慎重に回避される:いわゆる30°規則であり、前の場面と同じ主題の場面では、カメラの角度は少なくとも30°異ならなければならない(そうしないと、見ている人にとって、明らかに無意味な位置変化のように感じられる)。
この劇映画の編集コードは我々にとって余りにも馴染みのあるものなので、それらが破られるまで、その慣例に気付こうとしない。まさに、それは‘自然なもの’であり、現象的な実在を反映したものだと思い、それがコードだと気付くことはめったにない。日常の視覚的認知でも、心理的にあるイメージから別のものに、‘場面転換(cut)’していることはないだろうか?これは、頭を回転させた時や目の焦点合わせを再度した場合に、最も強く見られる(Reisz & Millar 1972,213-16)。勿論、多くの場面転換は、我々の見る位置を変えることを要求する。これに対する普通の反応は −少なくとも、角度や距離を中和させそして場面の変化を無視する事に限れば− 編集技術は我々の日常の認識の中での通常の心理過程との適度な相似性を表現しているのだと、言うことができる。クローズ−アップの場面変換は、注意を意識的に移すことを反映または指していると見られる。もちろん、場面の転換が過激で、、日常生活のそれを模擬できないなら、認識の相似性による論理は成立しない。そして場面変換(cut)はしきりに、この転換を反映する;ただはかなく、映画の編集だけが、個人が‘そこにいる’という認識的な経験を反映する。しかし、もちろん心を捉える物語は、すでに我々を‘疑うことをやめる’状態に導いていることだろう。このように、我々は機械的にまた無意識に、映画制作者に我々が知っている同様の‘興行許可’を、見ている映画という主流的なものからばかりでなく、 −演劇、小説、または連続漫画などの− 他の媒体で用いられている同様なコードから許可してしまう。劇映画の編集コードという解釈の重要性を探求しまた実生活との相似性を強調する議論を知るためには、視覚的読み書き能力(Visual Literacy)に関するPaul Messarisの活気に満ちた興味ある本を見たらよい(Messaris 1994, 71ff)(Messaris 1994,71ff)。しかし、彼は研究の主眼点を、劇映画の編集コードは全体的に恣意的であることに根拠を置いている −何人かは、この観点を支持している。これらの技術は、我々が親しんでいるコードにできるだけ相似になるように設計されているので、それに慣れるやいなや、見ている人にとって見えないものとなる。Messarisは、コードより文脈が重要だと主張している;見ている人が、ある場面転換の意味が良く分からない場合には、(物語の論理のような)他のテクスト的コードや関連した(日常生活で似たような状況になったときに予想される行動のような)社会的コードを応用して理解しようとするのはありそうなことである。映画の理解は、複数のコードの知識に頼っている。劇映画へ記号論的に接近することは、単に慣例の重要性や慣例に従うことの重要性を認めることでなく、‘言うまでもない’ことを‘編集で外す’ことの中に含まれる自然化の過程をはっきりさせることである。
大部分の記号論者が視覚的コードを強調するのは、部分的には論評のために印刷された媒体を使っていることによるかもしれない −その媒体は視覚的なものに偏り、伝達経路の中で視覚的なものを優先する西欧の傾向に従っている。 −映画、テレビ、ラジオ等の− いろいろな媒体において、媒介され、構築され、編集されるのは視覚的イメージだけでなく、音にも適用できることは覚えておく必要がある。映画とテレビは、単純な視覚的媒体でなく、音響的−視覚的(audio-visual)でもある。視覚的なものが媒介されるような性質であることを認めても、音はほとんど媒介されていないと認識しやすい傾向がある。しかし、マイクロフォンの選択や位置、録音のために使う機器、編集や再生、ダイエジェティック音(diegetic)(画面上の人、動作、物から出ている音)対ノンダイエジェティック音、直接的録音それに対して後で同調させた録音、模擬音(パンチに対する高度に慣例化された記号表現)などは、コードを含んでいる(Stam 2000, 212-223; Altman 1992)。ハリウッドの主流となる伝統では、慣例的な音響的コードは次のようなものである:
どのテクストもコードは一つでなく、多くのコードを含む。理論家によって、そのようなコードの分類は異なる。ロラン・バルトは、彼の著書S/Zの中で、文学テクストの中で用いられているコードを5つ挙げている;hermeneutic(解釈学のコード、物語の転換点);proairetic(行動のコード、物語上の基本的な行動);cultural(文化的コード、前もって持っている社会的知識);semic(共示的コード、媒体に関連したコード)とsymbolic(象徴的コード、テーマ)である (Barthes 1974)。ユーリ・ロットマンは、詩は‘ −字句的、文法的、韻律的、語形論的、音韻論的等々の− のシステムであり’、そしてそのようなシステム間の関係が強力な文学的効果を生むと主張している。それぞれのコードは、他のコードが侵害する期待をお膳立てする(Lotman 1976)。同じ記号表現が、幾つかの異なるコードでその役割を果たす。このように、文学的テクストの意味は、幾つかのコードにより‘過度に定義される’。記号を他の記号との関連で分析する必要があるように、コードも他のコードとの関連で分析する必要がある。そのようなコード間の相互作用を知るためには、再読という潜在的に再帰的な過程が必要となる。テクストの中で使われているコードは、特定のものに縛られるものではないので、そのような読み方はテクストの内部構造に制限されない −これは‘テクスト間相互関連性(intertexuality)’に関する課題であり、それには後で触れることになる。
コードに関する一つの簡単な類型学をこの章の始めに提示しておいた。幾つかの主要な理論の類型学は、たびたび述べられているが、それについて読者に、簡単に示しておいた方が良いかもしれない。ピエール・ギロー(1975)は、3つの基本的コードを提案した:論理的、美学的、社会的コードである。ウンベルト・エーコはイメージを形成する手段として10のコードを提示している:知覚のコード、伝達のコード、認知のコード、音色のコード、類像的コード、肖像的コード、好みと感受性のコード、修辞的コード、文体上のコード、そして無意識というコードである(Eco 1982, 35-8)。そのような分類学の価値は、探求している現象をどれだけそれによって明らかにできるかということで、評価されるべきである。
その主張にどんな思想が組み込まれているにせよ、媒体のコードが内在化した結果、‘ラジオ時代に生まれた人とテレビ時代に生まれた人の世界認識は異なる’と主張されてきた (Gumpert & Cathcart 1985)。そのような立場の中にある 技術決定主義(technological determinism)の度合いには異論もあるが、それは道具や技術を使うことが、我々の心の慣例に何も影響ないと言っている訳ではない。どんな媒体でも、表現や意味が自然で、明白で透明に思えるときに、コードの作用を知覚することを学習するのは、容易なことでない。記号学者がコードの作用に関して観察したことを理解すると、コードの中の隠された慣例を明らかにし分析することで、そのようなコードを脱自然化することができるようになる。記号論は、特定のテクストや実践において作動しているコードを脱自然化するための概念上の「かなてこ」を提示し、てこを働かせる機会を我々に提示する溝や断裂を発見できるようにする。