マクルーハン流の理論家は、その時代の主流となる媒体のコードは、その使用者の認識過程や‘世界観’に、希薄だが深い影響を与えていると主張している。マーシャル・マクルーハン自身、彼の著書グーテンベルグの銀河系(The Gutenberg Galaxy)の中で、, イビンス(Ivins) (1953)にならって, 印刷の‘衝撃(impact)’を強調している (McLuhan 1962)。グーテンベルグの移動可能な印刷の発明と同時代の、ルネッサンス初期のもう一つの発明も、西欧文化の世界観の深い変化に重要な役割を果たした、と良く言われている。線形遠近画法(透視画法)(linear perspective)という、数学に基礎を置くこの技術は、1425年にFilippo Brunelleschiにより発明され、Leon Battista Albertiによって、1435−36年に出版された彼の論文、Della pittura (絵画について)の中で、perspectiva artificialis(人工的遠近画法)と名付けられた。 (Alberti 1966). 美術家にとっては、それは空間の対象物をシステム的に表現することにより、日常的な視覚の幻影(illusion)を模擬できる合理的な技法である。その視覚的幻影というのは、直線からなる対象の平行な辺が、地平線のいわゆる‘消滅点’で1点に集まることを指す。
‘視覚の形体’は歴史的発明ということを忘れてはならない:‘中世より前の絵画でそのよう画かれたものになく、それは、前の時代の男女は単純にそのような方法では見ていなかったことを示唆している’ (Romanyshyn 1989, 40)。そのように、線形遠近画法は、Samuel Edgertonが‘ルネッサンス・パラダイム’における‘”真理”を絵画的に表現するための最も適切な慣例’と特徴付けたように、見るための新しい方法を構築した(そして、それはアインシュタインの相対性理論が確立するまでの、我々の理解を反映した世界の見方であった) (Edgerton 1975, 162)。我々は、この幻影的な絵画のコードに基づく用語で、絵画を読むことに慣れているので、そうすることが‘当たり前’のように見える: 我々は、それがコードだということにまったく気が付かない。1920年代に、ドイツ語で出版された‘象徴的形式としての遠近画法(Perspective as Symbolic Form)’という随筆で、偉大な美術史家アーウイン・パノフスキー(Erwin Panofsky)は、線形遠近画法は‘象徴的形式’であったという主張することで、注目すべき論戦を引き起こしている −線形遠近画法は、イタリア・ルネッサンスで主流となった世界観を反映した、絵画空間を表現する体系であった(Edgerton 1975, 153ff)。同様に、ハーバート・リード(Herbert Read)は、‘我々は、15世紀に開発された遠近画法の理論が、科学的慣例であるといつも理解している訳ではない;それは、空間を記述するための一つの方法であり、絶対的な正当性を有している訳ではない’ (cited in Wright 1983, 2-3)。批判者は、厳密な幾何学的遠近法は科学的に‘正確’であると逆襲し、パノフスキーや他の異端者たちを、‘相対主義者’と非難する (see Kubovy 1986, 162ff)。確かに、現象的実在性を割り引いて考えるなら、ウイリアム・イビンスが‘遠近法の文法’と呼ぶものは、指標的性格を有していると理解することができる (Ivins 1975, 10)。しかし、 ‘一つの眼を閉じ、一つの予め定められた点に頭を固定すると、物はいつものようには見えない’のは、疑いのないところである (White 1967, 274)。
厳密な線形遠近画法は、現象的実在を反映していない。それは、我々が、以前紹介した‘認識上の定常性’という心理的な安定機構に、慣らされているからである。もし貴方が美術家でないなら、視野の中にある物を図る物差しとして、鉛筆を垂直に前にかざして見て下さい。そうしたことがないなら、近いものが、受け入れがたいほど大きく見えることに、ショックを受けるだろう。これは、遠近法により、前に突き出した足を書いた場合、それが可笑しいほど大きいのと、非常に深く関係している。
ルネッサンスの偉大な画家アンドレア・マンテーニャ(1431-1506)でさえ、死せるキリストを遠近法で描こうとした時、線形遠近画法による歪みという冒涜に対して補償する必要を感じていたに違いない。というのは、足を小さく頭部を大きくし、彼の主題に適した‘釣合いの感覚’を示しているからである。Albertiは、品位や端正のための適切な観点からは、真に迫って描くことを緩和する必要があると著述している。(Alberti 1966, 72-7)
人工的遠近法(透視画法)は、手短にいえば、物のよく知っている寸法や形を歪めているのである。この意味では、マンテーニャの表現コードは、写真よりも現象的実在に近い。Albertiでさえ、このコードに沿って、物を見るのは容易ではなかった:彼は‘目と見られるものとの間の’平行線を仕切る薄い‘膜’や網をおく必要があることを見つけた。(ibid.,68)。マーシャル・マクルーハンは、‘3次元の遠近法は、人間の視覚の通常の様態とは異なり、見ることに関する慣例的な、獲得された様態であり、それと同じように獲得されたのは、アルファベットの文字を認識する手段や年代順の物語を追う方法である’、と断言している。 (McLuhan 1970, 16)。人工的遠近法 は、全ての人がそれに出会っているので、読むことを容易に習得できるコードであるが、美術家や建築家として、充分にそれを使いこなすようになるには、計画的な学習が必要となる。‘人工的遠近法’を導入することは、真に迫ることについての先入観を反映し、助長した:‘現実的な’絵画表現にとって、それは必須の条件となった。この技術が、深さに関する強力な印象を生成することは、疑いのないところであり、‘それは、写真の出現まで、ほかのどんな方法より、通常の認識に近いものであった’(Nichols 1981, 52)。しかし、その革命的な意味は、容易に具体化しなかった。Robert Romanyshynのこの発明の隠された意味に関する考えは精妙であり、広汎にわたっているが、次の抜粋は分かりやすい洞察を提示している。
水平線は‥‥絵画に描かれた対象の高さに対する限界を設定し、‥‥それは、水平面に立ち、世界に向かってまっすぐ頭を向けていると想定されている観察者の目の水準に固定されている。
絵を描く人(そして観察者)、彼または彼女は、あたかも窓を通して描いている物(世界)を見ていると思っている。窓という条件は、 認識するものとされるものの間にある境界を暗示している。それは、認識のための条件として、世界を観察している主体と、観察されている世界の間の形式的な分離を確定する;そして、そうすることにより、いわば近代の幕開けを特徴付ける、世界からの自己の引きこもりや引き上げの舞台を準備する。窓の後ろに隠れて、自己は観察する主体, 見物人となり、光景や 見る対象となった世界と対峙する。
認識者と世界の分離に加えて、窓という条件が物体の失墜(eclipse of the body)を創始した。窓の後ろから見ることにより、世界は主に見られるなにかになる。まさに、私と世界の間にある窓は、世界へ接近する手段としての目を強調するとともに、他の感覚の意義を低下させる傾向にある‥‥。 そして、窓により助長される物体の喪失と共に、窓の向こう側の世界は情報の事柄となるようすでに約束されている。 それは見世物、つまり視覚の対象として分析でき、例えばコンピュータからの印刷物、またはレーダー画面の映像のように読み取れるようになる‥‥。 (Romanyshyn 1989, 40-41) |
中央の一点への線形遠近画法というルネッサンスのコードは、単に2次元の媒体での深さや相対距離を示す技術ではない。それは、その時代に育ちつつあるヒューマニズムを反映した絵画のコードであり、単一、主体的、個人的そして唯一の視点からの画像を提示している。絵の中の‘消失点’を反射 することは、美術家によって採用され‘主体’のために空白のまま残されている‘始点’であり、我々がその絵を見る時、採用する点である。 (Nichols 1981, 53). この点からは、表現される世界は壁にある窓のように枠取りされる。枠取りされた像は、‘通常の窓では、向こうの景色がなにかその表面に貼り付けられように思えるのと同じように、そこに参加してくる’ (ibid., 159)。Albertiは、彼自身、‘好きなだけ大きく、直角四角形を描くことができ、それはそれを通して描きたいと思うものをみる開かれた窓だと考えることができる’(Alberti 1966, 56)。画家は、‘あたかも、その窓が素通しのガラスであるように、この面の上に見られるものの形を提示するように努めなければならない’ibid, 51)。画家のAlbrecht DuEerは、‘perspectivaはある物を通して、物を見ると言うことを意味するラテン語である’と言っている (Panofsky 1970b, 123)。
しかし、窓を通して見ることを模擬するのと同時に、この明確に区切られた静的な2次元の表現は、観察者を表現された世界から分離している。‘遠近法で見ること’は、ジプシー(Romanyshyn)や他の理論家によって、知られるものから知るものを離すことの中に含まれる主体性の発達と関連していると認められた。ウイリアム・イビンス(William Ivins)は、線形遠近画法は‘風景の合理化’であると考え、‘ルネッサンス時代の最も重要なできごと’であると宣言している (Ivins 1975, 13)。John Whiteが見ているように、線形遠近画法はまさに主流となる美術画法だが、疑いもなく‘冷たい効果’を与えている(White 1967, 274)。マーシャル・マクルーハンは‘離されている観察者’を‘ルネッサンスの遺産’と見ており、‘ルネッサンス美術の観察者’はシステム的に、経験の枠外に置かれる、と宣言している (McLuhan& Fiore 1967, 53)。美術家やその作品の鑑賞家が‘単一の静的な位置を恣意的に選ぶこと’は、‘見る点を固定する’ことを要求し、マクルーハンは単に見る位置だけでなく、‘分離された個人’の‘私的な足場’と関連付けている。(McLuhan 1962, 16, 56; McLuhan & Fiore 1967, 68)。窓を通したものとして、表現された世界を見ることは、我々自身は独自の‘世界観’を持った個人である、という感覚を強める。‘遠近法を手に入れること’は、‘全ての現象を、ある定まった視点から見るという、我々に深く埋め込まれた習慣’を反映している (McLuhan & Fiore 1967, 68)。マクルーハンは、これを線形遠近画法だけに帰するのではなく、‘印刷法の効果’もあるとしている:‘離れた目標に向かっての、内部の方向性は、印刷文化やその一部である空間の遠近画法的また消滅点による空間の組織化と切り離せない’ (McLuhan 1962, 125, 214)。この明らかに純粋な技術的変革が、このように精妙かつ深遠な思想的意味を持つようになった。Bill Nicholsは、‘ルネッサンス絵画で、主体や自我を中心とするまたその上に中心を置くことは、人との関係よりも個人を強調するようになりつつあることの最初の記号と一致しており、それは企業的資本主義の出現を飾っている’、とコメントしている(Nichols 1981, 53)。人工的遠近法というルネッサンスのコードは、主体としての自己という構造への視覚的証拠を構築している 。
線形遠近法というコードを読むことは、カメラへの準備をさせることになった。マクルーハンは、‘写真は遠近法の絵画や止まった目の機械化である’と見ていた(McLuhan 1970, 11)。写真は、‘世界に向かった透明な窓’としての媒体という、強力な幻影を提供する;絵画と同じように、写真の像は縁取りされている(縁(ふち)によるものかもしれないが)。 19世紀初期には、カメラ・オブスクラ(camera obsucra:暗い部屋)は、レンズから入る丸い像(それは縁でぼやけていた)の四角い部分のみ見せる四角いスリガラスに、適合していた (Snyder & Allen 1982, 68-9)。これは、カメラの像が、絵画で使われている枠取りの主要な形式であることを確固なものにする。絵画の人口的遠近法は、単一かつ中心的視点を共有するが、写真はこのコードのもっとも冷酷な応用である。写真は、時には、絵画よりも現象的実在を‘歪める’:高い建物のスナップは、疑わしいほど、縦の線が縮んでしまう(我々は、縦に縮むことには、ルネッサンスの芸術家がそれを避けていたこともあり、慣れていない)。35mm写真では、50mmという‘標準’のレンズを用いた時が、深さの幻影はもっとも衝撃的である:望遠や広角レンズを使った方が、‘歪み’が分かるようになる(Nichols 1981, 19). ‘フォトリアリズム’は、それにもかかわらず、視覚的芸術における‘現実的’表現を主体的に判断する場合の規準となった (Kress & van Leeuwen 1996, 163-164)。
ルネッサンスの線形遠近法(透視画法)という幻想が、‘主体を位置付ける’という思想的機能を果たしたように、写真の像も同じような役割を果たした。‘見る人を主体として任命するかどうかは、彼また彼女に特異な位置を用意するかどうか、その位置は像の“後ろ”の消滅点とは逆に、像の前にカメラがその視界を‘得る’また我々が我々の視界を得る始点を用意できるかどうかに依存している’ (Nichols 1981, 159)。雑誌Tel Quel と Cinethiqueと提携しているフランスの研究者は、線形の遠近画法というコードは、カメラに組み込まれているので、写真や映画は、単純に実在の中立的な記録を装っているが、‘実は個人の主体に焦点を当て、それを意味の起源とする有産階級を強化している’、と主張している。 (Stam 2000, 137)。映画とテレビは、主体の位置付けに物語の次元を加え、それは線形遠近法だけでなく、映画的な媒体に特有な支配的な物語の工夫とも一体化する。 映画研究家は、‘縫い合わせ(suture)’(外科的縫い方)の使用に言及する −それは、物語を前面に出し、見ている人の主体性を形成する思想的過程を隠そうとする場面の関係の‘見えない編集’である。何人かのラカン流の研究者は、(同一意識や反対意識を有する)慣習的な物語という文脈では、劇映画の特異な性格(例えば、暗闇の中で大きくて、明るいスクリーンをじっと見ている)は、自我が形成された、言語以前の‘像’の‘鏡像段階’へ回帰するという魅惑的な感覚を我々に提示する、と主張している(Nichols 1981, 300)。
チャールズ・パースは、‘記号は、‥‥誰かに語りかけている’と宣言している (Peirce 1931-58, 2.228)。記号は、特定のコードの中で、我々に‘働きかける(address)’ 。 類型(genre)は、その中で、特定の‘伝達の様態(mode of address)’を使うことを介して我々が‘理想的な読者’として位置付けられる、記号論的コードである。伝達の様態(Modes of address)は、テクストにおいて、発信者と受信者の関係が確立される流儀であると定義できる。コミュニケーションを取るためには、テクストの作成者は、意図している読者について何らかの想定をしている;そのような仮定がどのように反映されているかは、テクストの中で見分けられるかもしれない(広告は特に、この明確な例である)。
‘主体の位置づけ’は、特に記号論的な概念というよりも、構造主義的観念である −しかし、スチュアート・ホールは初期の構造主義の書物にはないと言っている。(Hall 1996, 46);ソシュールはそれを議論していない。それは、記号論者によって広く用いられている概念であり、その文脈で研究されるべきである。 ‘主体(subject)’という用語を、最初に少し説明しておきたい。‘主体性の理論’では、‘主体’と‘個人’を区別している。Fiskが言っているように、‘個人(individual)は生まれつき(nature)のものである;主体(subject)は文化(culture)により作り出される‥‥。主体は‥‥社会的構築物であり、生まれつきのものではない’ (Fiske 1992, 288; 著者の強調)。個人は実際の人間であるが、主体は支配的文化や思想的価値(例えば、階級、年齢、性別、民族)により構築された役割の集合である 。思想は個人を主体に変える。主体は実際の人ではなく、テクストの解釈と関連してのみ存在し、記号の使用を介して構築される。心理分析学者であるジャック・ラカンは、主体は一様であり、首尾一貫しているという人道主義的考えを掘り崩した。個人は、複数の主体の位置を持ち、それらのいくつかは矛盾している。‘アイデンティティ(identity)’は‘主体−位置の行列’と考えられる (Belsey 1980, 61)。‘アイデンティティ’の流動性と分裂はインターネットという文脈で浮き彫りにされている。そこでは 、‘主体’は必ずしも、想定された指示対象と関連をもつ必要がない (つまり、物質世界の特定の個人と関連を持つ必要がない);性別、性的指向、年齢、またはどの人口統計学的指標も、意のままに変えられる(そのような仮想的アイデンティティを維持する社会的能力に従うことになるが)。
テクスト的位置取りに関する研究者によれば、テクストの意味を理解することは、適切な思想的アイデンティティを採用することを含んでいる。テクストに含まれる記号を感知するためには、読者はそれに関連した‘主体−位置’を採用しなければならない。例えば、広告を理解するためには、自分が広告されている商品を欲しいと思っている消費者でなければならない。何人かの研究者は、この位置はテクストの構造とコードに存在していると主張している。‘物語や画像は、常にそこから物語を読んだり、画像を見たりする、ある一つ位置や複数の位置を構築することを暗に含んでいる’ (Johnson 1996, 101)。Colin MacCabeが‘古典的実在主義テクスト’と呼んでいるものは、終結するように編曲されている:矛盾は抑圧され、読者は、全てのことが‘自明’に見えるような位置を取ることが奨励される (MacCabe 1974)。この立場は、テクストは同質であり、一つの意味しか持っていない −それは制作者により意図されたものである− 、ことを仮定している。一方、現在の研究者は、幾つかの異なる主体−位置(それは矛盾しているかもしれないが)から、テクストを理解する。これらは、著者により理解されているかもしれないが、それらは必ずしもテクストには組み込まれていない。全ての読者が、テクストの制作者によって想定されている‘理想的な読者’というわけではない。‘主体の位置づけ’という成句は、‘テクストへの必要な“服従”を意味している’ (Johnson 1996, 101) 。そして常に、解釈に自由度を残すので、問題も含んでいる。例えば、平たく梱包された家具を組み立てるための、あまり出来の良くない指示書を、純粋に娯楽のために書かれたテクストと見なすことも出来ないわけではない。
人間の主観は予め与えられた構造により、‘構成されている’(構築されている)という考えは、構造主義の一般的な特徴である。これは、進歩的な人道主義者(または‘中産階級’)の立場とまったく対立している。後者は、社会を‘“自由な”個人で構成され、その個人の価値は、予め与えられた要素、例えば“才能がある”、“技量がある”、“怠け者”、“道楽者”などによって決定される’ とする(Coward & Ellis 1977, 2)。フランスのネオマルクス主義者ルイス・アルチュセール(1918-1990)は、主体の概念を強調した最初の思想的理論家だった。彼個人はとっては、思想は、個人が占めることができるある主体の位置を提示できる、実在の表現システムであった。よく知られているように、彼は次のように宣言している。‘思想の中で表現されていることは‥‥個人の存在を支配する実在する関係というシステムではなく、彼らが生きている実在する関係に対する個人の虚構の関係のシステムである’ (Althusser 1971, 155)。彼は、説明要求(interpellation)という思想的機構の輪郭を、次のように 描いている:
思想は、次のような方法で‘作用’または‘機能する’。私が説明要求または呼びかけ(hailing)と呼んだ極めて正確なやり方で、個人の中で主体を補充し(彼らをすべて補充し)または個人を主体に‘変換’する(彼ら全てを変換する)。そして、それは公共の場所で、‘おい、君’という警察官の呼びかけを想定して見ると良い。
私が想像した場面が、ある通りのある場所で起こったと仮定してみる。呼びかけられた人は振り向くだろう。このただの180°の物理的な転換によって、彼は主体となる。何故? それは、呼びかけは‘本当に(really)’自分に向けられたものであり、‘呼びかけられたのは、(他の誰かでなく)、本当に自分だ’、と彼が認識したからである。 (Althusser 1971, 174)
説明要求というアルチュセール流の概念は、マルクス主義のメディア研究者 によって、マスメディアのテクストの政治的機能を説明するために使われている。この観点からは、主体(見る人、聴く人、読む人)はテクストにより構成され、そしてマスメディアの力は、その表現が日常生活の反映と取られるように主体を位置付ける能力にある。位置付けに関する、そのような構造主義的枠組は、テクスト決定主義(textual determinism)の立場を反映している。しかし、テクスト決定主義は、いろいろな使い方や異なる観客による理解(‘多アクセント性’)によって生じるテクストの‘多記号’性格(意味の多重性)を強調する傾向にある、現代の社会記号論者によって、問題にされている。しかし、ここでメッセージとコードを区別しておくのが良いかもしれない。メッセージのレベルでの抵抗は常に可能だが、コードのレベルでの抵抗は、そのコードが主流である場合、ずっと難しくなる。‘実在主義的’テキスト(特に、写真や映画のテクスト)のコードに慣れ親しんでいるので、そこでは(もし、必ずしも明白な内容でなくても)、いつでも‘疑問を停止’させることになる。慣れ親しんだものと認識することは、(‘本来のもの’という姿で)繰り返し、理解する慣例的な方法を固め、自我の感覚を強化する一方、同時に目に見えずその構築に力を貸す。‘我々が“(その像が意味していることが)分かった”と言う時、これは同時にある知識の場所に我々を置き、主体としてこれの意味する場所に転移させる‥‥。見ている人がするべき全てのことは、主体としての場所に落ちることである’ (Nichols 1981, 38)。実在主義的テキストの立場に落ちることは、殆どの人が内省的な分析(それは、自我の感覚に関する安心を揺るがしかねない)で、それが壊されることを望まない、心地よい経験である。このようにして、我々は自由に考えられる個人であるという感覚を構築する思想的過程に、自由に服従するようになる。
主体の構築に含まれる主要なテクスト的コードは、範疇(genre)のそれである。範疇は、表面上、‘中立’であり、形体(その範疇の慣例)を、その範疇におなじみの形体に‘透明’にするように機能し、またそれぞれのテクスト独特の内容を浮き彫りにする 。確かに、範疇は、読者がテクストを識別、選別そして理解する(同時に、媒体において効率的に制作する)のを助け、参照のための重要な枠組を用意する。しかし、範疇はある価値や思想的仮説を具現していると理解され、また特定の世界観を確立しようとしていると解される。ある範疇の慣例の中で、変化が起きたときは、それは、その時代の主流となる思想的な風潮を反映し、また形成するのを助長する。何人かのマルクス主義評論家は、主流となる思想を再生産する社会的支配の道具と見ている。この観点からは、範疇は、テクストの中で具現化されているたのもしく保守的な思想を、自明なものとするように観衆を位置付けると考えられる。確かに、範疇は、思想的には中立からは程遠いところにある。範疇が異なれば、主体を異なる位置に置き、それは伝達の様態(mode of address)を異なったものにする。Tony Thwaitesと彼の仲間は、次のように述べている。多くのテレビの犯罪ドラマでは、The Saint, Hart to Hart及びMurder, She Wroteの伝統に沿って、
上品または裕福な私立探偵は、金持ちのために働き、そして、その社会性や行動パターンが‘犯罪者階級’であるというパターンを示す登場人物によってなされた犯罪を解決する‥‥。悪役があまり報酬を受け取れないのは、彼らが法を破ったからでなく、彼らが法のうちに留まるブルジョアと全く異なっているからである。このTVの範疇は階級社会における個人についての支配的な思想を再生産する(Thwaites et al. 1994, 158)。
このように、個別のテクストの特定の内容を越えて、またその上に、読者の含まれている包括的な枠組が見える。
ソシュールは、言語システムはその使用者に先行した‘所与のもの’であり、人間には制御できない、と強調している。このスタンスを発展させ、ポスト−ソシュール流構造主義者は、記号システムは‘個人’が制御できる道具であるという考えとは全く違って、主体は言語、思想、神話という記号システムにより構築されると主張している。そのような構造的決定主義や自律性は、例えば、次のようなC・レヴィ=ストロースの宣言に反映されている。‘人間が神話の中でどのように考えるかではなく、神話が人間に事実を知らせないで、どのように人間の心に作用するか示したい’ ('les myths se pensent dans le hommes, et uEleur insu') (Levi-Strauss 1970, 12)。これは、アルチュセールでも明らかである:‘マルクスは、最後に社会の形体を決めるのは‥‥、実在の精神、人間の本性、人間、“人間達”でさえ、なく、関係、生産という関係と見ていた’ −言い換えれば、CowardとEllisが言っているように、‘人間が社会の根源でなく、むしろ社会が人間の根源である’ (Coward & Ellis 1977, 82, including this citation from Althusser)。そして、心理分析家ジャック・ラカンは、‘人間は話す、しかし彼を人間にするのは、象徴である’、と見ていた( Coward & Ellis 1977, 107に記述されている)。ソシュールは、構造主義(そしてポスト構造主義)理論の多くがそこから導かれた主要な枠組を用意しながら、主体は(言語)システムにより構築されるという主張を進めなかった。驚くほど近い時代の1868年に出版された展望で、我々が今、記号論として知っているものの共同創立者のチャールズ・パースは、準演繹形式を用いて次のように宣言している。‘全ての思考は記号という事実と、生命は思考の連続であるという事実を結び付けると、人間は記号であるということが証明される‥‥。このように、私の言語は自分自身の総計である;というのは、人間は思考であるから’ (Peirce 1931-58, 5.314)。彼は、次のように続けている。‘人がこれを理解することは難しい、というのは彼の意志で彼自身を確認することに固執するからである’(ibid., 5.315)。幾つかの例のように、パースの思想は、もっと劇的な形でポスト構造主義に反映されている。百年後、フランス人で知の考古学者のミシェル・フーコーは、黙示的に次のように宣言している。‘我々の思考の考古学が示しているように、人間は近代の発明である。そして、多分、終焉に近づいている’(Foucault 1970, 387)。
フーコーは、彼の本言葉と物(The Order of Things)の有名な第1章で、1656年にスペインの画家、ディエゴ・ベラスケスによって描かれた侍女達(Las Meninas)(The Maids of Honour) を論じている。絵の表面上の主題は、侍女達に囲まれた王女だが、それは絵を描くことについての異常なほど再帰的な絵の描き方である −またはもっと広く言えば、表現の業務についての再帰的な絵の描き方である。それは、画家の役割、実在の描写、またErnst Gombrichが視覚的世界を理解するための‘見る人の役割’と呼んだものに関するに調停と見ることができる。侍女達の見物人つまり画家が絵として描かれているモデルであるところに、皮肉がある。
画家は、キャンバスから少し後ろにいる。彼は、モデルをチラッと見ている‥‥。画家はある一点からは始めようとしている。それは見えないが、我々、観衆は、その位置にいるので、主体がなにか容易に指定することができる‥‥。彼の観察している光景は、二重の意味で見えない:第1は、絵の空間に表現されていないからであり、第2は、あの盲点、実際に見た瞬間に、我々自身から視線が消えてしまう本質的な隠れ場に位置しているからである‥‥。一見、こうした場所は単純である:それは純粋な相互作用の事柄である:我々は絵を見ているが、そこでは画家が我々を見ている‥‥。しかし、画家が目を我々に向けているのは、我々がたまたま、彼の主題と同じ位置を占めているからに他ならない。我々、鑑賞者はおまけに過ぎない。その視線に歓迎されながら、それによって追い払われ、我々の前に、以前からあったものつまりモデルそのものによって追い払われてしまう‥‥。絵の左端で、裏を見せているキャンバスは‥‥、視線の関係を見出すことや確立することを妨害する‥‥。裏側しか見えないので、我々はだれか、何をしているのか知ることができない。見られているのかまたは見ているのか‥‥? 我々は、画家から見られている我々自身を見ており、彼を見るのを可能にしているのと同じ光で、彼の目に我々を見えるものとする‥‥。
ところが、正確に鑑賞者 −われわれ自身− の正面、部屋の背景を構成する壁の上に、ベラスケスは一組の絵を表現している;そして、これらの掲げられたキャンバスの中で、特異な光に輝いている絵が一枚ある。その枠は、ほかのものより広く、暗い‥‥。しかし、それは絵でない。鏡なのだ。 それは、今まで拒絶されていた模像の魅力を提示する‥‥。事実、それは絵自身の中に表現されている何者も示していない‥‥。鏡が映しているもの、それは絵の中の全ての人がまっすぐに凝視しているものである;絵がもっと前まで拡張されるか、底辺が、画家がモデルとして描いている人物が含まれるようにもっと下までもってこられれば、観衆が見られる‥‥。部屋の奥では、思いがけない鏡が誰にも知られず、画家が見ている諸形象(表現された画家、客観的実在性、仕事中の画家という実在性)と共に、画家を見ている諸形象(線や色がキャンバスの上に置いた物質的実在性)に輝きを与えている‥‥。スペイン王フィリップ4世と王妃マリアーナ‥‥。絵の中の全ての人物は二人を見ており、その目は、見られていることを示している。絵全体が、それ自身が場面であるような場面を見ている‥‥。
逆に、彼ら[王様と王妃]が絵の外部にとどまり、本質的な不可視性に撤退している限り、彼らは中心にいて、全体の表現を秩序付ける;一同が面しているのは彼らであり、全ての人が振り向いているのも彼らである‥‥。逸話の領域では、この中心は最高のものである。というのは、国王フィリップ4世の王妃によって占められているからである。しかし、それが至上のものであるのは、絵との関係で、それが3重の機能を満たすからである。描かれているものとしてのモデルの視線、絵を熟視している観衆の視線、絵(表現されている絵でなく、語り合っている絵である)を描いている画家の視線が重なり合うのはまさに、そこである。これら3つの‘見つめる’という機能は、絵の外の1点で合体する;つまり、表現されているものとの関連では観念的であるが、しかし、また完璧に実在でもある。というのは、表現を可能にする出発点だからである‥‥。
多分、ベラスケスのこの絵の中には、古典主義時代の表現における表現のようなもの、また我々に至るまで開かれている空間がある。
(Foucault 1970, 3-16)
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テキストにおいて、あるコードの下で採用されている伝達の様態(modes of address)は、主に、相互に関連している次の三つの要因に影響される:
- テクストの文脈:範疇と特定の統語の構造;
- 社会的文脈 (例えば、テクストの制作者の存在または不在、観衆の階級や社会構成、制度的また経済的要因));そして
- 技術的制約(使われている媒体の特徴)
この文脈では、コミュニケーションの類型学を、大きな遅れのない同時性(synchronicity) −それは必ずしも、参加者が‘実時間で’交信できるということを意味しない− という用語で考えると良いかもしれない。この特徴は、制作者の存在または不在や媒体の技術的特徴と結び付く。明らかに、次のような選択肢がある:
- 同期した個人間のコミュニケーション 、それは話言葉や非言語的な合図を介して行われる;また話し言葉のみである場合(例えば、電話)や主にテクストを介した場合もある(例えば、インターネットのチャット・チャットシステム);
- 非同期の個人間のコミュニケーション、それは主としてテクストを介して行われる(例えば、手紙、ファックス、Eメール);
- 非同期の大衆伝達(マスコミュニケーション)それは、テクスト、画像そして/またはオーディオ・ビジュアルの媒体(例えば、記事、本、テレビ他)
この枠組には、想像するのが難しい同期した大衆伝達が入っていないのに、注意しよう。コミュニケーションの様態の上のような特徴は、そこに参加している人の数にも関係し、以下のように種類分けされる:1−1;1−多数;多数−1(例えば、情報の要請や要求);そして多数−多数(例えば、インターネットの討論リストやニュース・グループ)。そのような枠組の限界を、もう一度注意しておくと次のようになる −これは、小さなグループにおけるコミュニケーションの重要性を見逃しがちになる(というのは、そのような小グループは‘一人でもないし、‘多数’でもない)。どんな分類分けにも欠点があるが、それらの要因は全て、そこで用いられている伝達の様態に影響を及ぼす可能性を持っている。
伝達の様態(Modes of addres)は、その直接性(directness)、形式へのこだわり(formality)、物語の視点(narrative point-of-view)によって、異なってくる。文学と関連して、物語の視点は、1961年に出版されたWayne Boothの本、虚構の修辞学(The Rhetoric of Fiction)で、模範的な扱いを受けている。 (Booth 1983; see also Genette 1972)。
文学における、物語の視点には以下のようなものがある:
- 三人称の物語
- 全知の(omniscient) の語り手
- でしゃばり(intrusive) (例えば、ディケンズ)
- 表に出ない(self-effacing)(例えば、フローベル)
- 選択的視点、それは表に出ない語り手によって提示される登場人物の視点である(例えば、ヘンリー・ジェイムズ)
- 一人称 物語:それは登場人物によって、直接語られる(例えば、サリンジャーのライ麦畑でつかまえて)
テレビや映画では、全知の物語が主流であるが、物語の視点は移りつつある。カメラ処理は、我々にある出来事を、特定の観客からの視点からのように見せる時、‘主観的’と呼ばれる(そして、それは見ている人をその人の見方と一致させるようにするかまたは目撃者のような感じを持たせる)。しかし、映画という媒体では、この一人称のスタイルは、めったに確証されない(または、そのような登場人物を見ない)。単一の登場人物に関しては、視点は選択的であるが、カメラワークは主観的でない。時には、ドラマでは、登場人物による一人称の話のために、語り(voice-over)が使われる;それは、通常、ドキュメンタリーのような分野での三人称の物語の様態として、共通的ににも用いらる。あるテクストにおいて、一人称の注釈が人から人へ移っていく場合、これは‘多重音声(polyvocality)’(多数の音声(multiple voices))を生ずる −それは出来事を一つの視点から読む、‘単一音声(univocal)’の認識上の全知と強い対称をなす(Stern 1998, 63)。 話し手の行為が目立たなくなれば、出来事や事実は‘それ自身を表す’ように見せかけることになる。
伝達の様態は、直接性で異なってくる。 (Tolson 1996, 56-65)。言語的コードでは、‘あなた’にあからさまに向けられたものかどうかに関連してくるが、文学的モードでは極めてまれである。Laurence Sterneの高度に非‘慣習的な’小説Tristram Shandyでは、1章がこのように始まる:‘どうして最終章を読まないのですか、マダム’(vol. 1, ch. 20)。‘現実主義的’小説は、このような‘遠ざけること(alienatory)’は好まない。表現するための視覚的コードでは、直接性は描かれた人が直接、 観客を見ているように見えるかどうかに、関係してくる(テレビ、映画や写真の場合、カメラレンズを通してであるが)。直接見つめることは、個々の観客との相互作用を模擬している(直接見つめることは、1対1のコミュニケーション用媒体以外は不可能であるが、インターネットやビデオ会議での‘ライブカメラ対ライブカメラ’のコミュニケーションではそれが可能となる)。映画やテレビでは、伝達の直接性は、カメラワークだけでなく、言語的コードにも反映される。ドキュメンタリー分野の映画や(特に)テレビの番組の制作者は、しばしばテレビのコマーシャルのように、番組から分離した語りを用いる。テレビでは、伝達の直接性は、どの範囲まで参加者が直接、カメラ・レンズを覗き込むかということである。このように、コマーシャルはしばしば、直接的な伝達を含んでいた。テレビの文法(The Grammar of Television)という本の中で、番組について専門家は次のように警告している:‘出演者が直接、個人的に視聴者に話しかけているという印象を与える必要がない場合は、カメラ・レンズをまっすぐ見させてはいけない’(Davis 1960, 54)。テレビ番組では、伝達の直接的な様態は主に、ニュース・レポーター、天気予報士、司会者、インタビューする人に限られている −それは、めったにないが、インタビューを受ける人がカメラ・レンズをチラッと見るのを疑問に思う原因である。簡単に言えば、テレビ業界の外部の人は、テレビで我々に直接語りかけることはできない。国家首席や政治団体のリーダーは、視聴者に直接、向くことができる数少ない外部の人たちであり、党の政治的放送や‘国民へ向けた演説(address to the nation)’のような特別な分野にいる人たちだけである。直接的な伝達は、情報発信者の力を反映しており、その記号表現を使うことは、‘権威’を意味することになる。劇映画では、直接的伝達はめったに使われないが、使われると喜劇的な効果を示すことになる。間接的な伝達(Indirect address)は、普通の物語の中で用いられている主要な様態であり、物語を目だようにさせるために、権威の作用を隠す。通常の映画やテレビのドラマは、次のような幻影に依存している。‘その幻影は、表現された人々が見られていることを知らないし、表現されている人々は、見られていないというふりをしなければならないということである’(Kress & van Leeuwen 1996, 126)。
加えて、伝達の様態はその形式へのこだわり(formality)または社会的距離(social distance)で変わってくる。Kress と van Leeuwen は、伝達の‘内的(intimate)’、‘個人的(personal)’、‘社会的(social)’、‘公的(public)’(または‘個人に関係のない(impersonal)’)モードを区分した (Kress & van Leeuwen 1996, 130-135)。言語に関しては、形式へのこだわりは、極めて密接に、明示性と結び付いており、内的な言語は最小限、明示的であり、最大限、非言語的手がかりに依存している。一方、公的言語は、この特徴を裏返したものとなっている(特に、印刷物で)。伝達の直接性とも関連した使用法では、社会的距離は、‘彼ら’から‘我々’を思想的に区別することを反映した、含みのある準同義語の使用を介して、確立される。例えば、‘私 は愛国者;君は国家主義者;彼らは国粋主義者(外国人嫌いxenophobes)である’。
視覚的表現では、社会的距離は、ある程度、外見上の接近度(apparent proximity)に関係している。カメラワークでは、形式へのこだわりの度合いは、撮影の大きさ(shot sizes)に反映されている −クローズ・アップは内的または個人的モード、中程度の撮影は社会的モードそしてロング・ショットは非個人的モードを表す(Kress & van Leeuwen 1996, 130-135; see also Deacon et al. 1999, 190-94 and Tuchman 1978, 116-20)。視覚的媒体では、見られている人と見ている人の表現されている 物理的距離は、しばしば観客の心情的なかかわりあいまたは批判的な分離の感覚を、助長する試みを反映している。近接した異なる領域によって示される形式へのこだわりが、文化的に変わることは、エドワード・T・ホールの影響力の大きい本隠された次元の中で、直接的なやり取りに関連して注目されている (Hall 1966). 近接性(距離)は、視覚的媒体における社会的距離の唯一の標識ではない:見る角度もまた、重要である。高い角度(上から、描かれる人を見下ろす)は、通常、その人を小さくまた取るに足らない人のように見せ、低い角度(描かれる人を下から見上げる)は、その人を力強くまた優れているように見せると言われているMessaris 1997, 34-5; Messaris 1994, 158; Kress & van Leeuwen 1996, 146)。これらの技術の相互作用は、重要である。ここにある、ミケランジェロのダビデ(1501-4、アカデミア美術館、フィレンツェ)の写真は、いずれも、この巨大な像の下から撮られているが、下からのクローズアップは、中程度の撮影(mid-shot)と対比すると、その像の力を強調しているように思われる。その中程度の撮影では、 −筋肉質であるが− ダビデは多少、柔和で繊細そうに見える。近寄れば寄るほど、上を見上げることになる。力というのは下からの角度つまりクローズアップによって、強く表現される。それは、あたかも、近づけば近づくほど、我々は、より繊細になる。
写真や映画の伝達の様態に関連して、ここに挙げられているような意味作用は、記号表現と記号内容の、現在、主流となっている、慣習的なまたは‘あらかじめ組み込まれた(default)’結びつきを表現しているかもしれない。しかし、1対1対応の‘辞書’を用いたプログラム的なコード解読は可能ではない −似たようなコードでも、記号表現と記号内容に間には、移動する関係があり、それを、特定のテクスト的システムがいろんな方法で著者に作用させる (Nichols 1981, 108)。
テクスト的コードは、発信者(addresser)と受信者(addressee)のために、可能な読む立場を構築する。ヤコブソンのモデルを構築するにあたって、Thwaiteset al. は、そのようなそのような主体とそれらの間の関係の構築に特有の言葉で、‘伝達の機能’を定義した。
- 表現の機能(expressive function):発信者の構築(著者);
- 能動機能(conative function):受信者の構築(理想的読者);
- 情報伝達の機能(phatic function):発信者と受信者の間の関係の構 築 (Thwaites et al. 1994, 14-15).
テクスト的コードは、制作者と読者が共有する読み方の集合である、と定義できる。全ての人が、テクストを読む(または書く)ために適切なコードに近づく道を持っているわけではない。情報伝達の機能は、ある読者を取り込むと同時に、排除してしまう。コードを共有する人たちは、同じ‘解釈共同体’の成員である (Fish 1980, 167ff, 335-6, 338)。David Morleyは、テレビの‘ニュース・マガジン’分野における番組のコードへの異なる接近法を示した (Morley 1980)。ある特定のコードに慣れ親しんでいるということは、階級、民族、国籍、学歴、職業、所属する政治団体、年齢や性別などで表される、社会的地位と関連している。この主張は、必ずしも社会決定論を反映しているわけではない、というのは個人がそのようなコードに対応する方法はいろいろあるという見方も残されているからである。
コードの中には、より広まり、接近しやすいものもある。ひろく広まり、幼いときから学んだコードは、構築されたというより、‘もともと在るもの’と見られる (Hall 1980, 132)。。John Fiskeは、広く広まった(ブロードキャストbroadcast)コードと限られた範囲で広まっている(ナローキャストnarrowcast)コードを区別し、前者は大衆に共有され、後者は限られた人々に向けたものであるとしている:ポップ・ミュージックは前者であり、バレーは後者である(Fiske 1982, 78ff)。ブロードキャスト・コードは経験を通して、習得される;ナローキャスト・コードはしばしば、計画的な学習を必要とする (Fiske 1989, 315)。 Basil Bernsteinの議論の余地のある社会言語理論の後では、Fiskがブロードキャスト・コードと呼んでいたものは、メディア研究者からは‘制限されたコード(restricted codes)’として記述され、Fiskがナローキャスト・コードと呼んでいたものは、‘念入りに仕上げられたコード(elaborated codes)’として記述されている(Bernstein 1971)。 ‘制約された’コードは、構造的により簡単であり、またより反復性のあるもの(‘過剰コード化(overcoded)’)として記述され、情報研究者が冗長性(redundancy)と呼んでいるものを有している。そのようなコードでは、いくつかの要素が選ばれた意味を強調また強化する。それと対照的に、文学的な書物 −特に、詩− には、最少の冗長性しかない (Lotman 1976)。 ‘制約された’コードと‘念入りに仕上げられた’コードの区別は、大衆(教養の低い人'lowbrows')とエリート(知識人'highbrows')との違いを強調するために役立つ。Michael Realは、次のように主張している。‘大衆市場’の‘最もポピュラーな’文化は、冗長度が高いことが特徴であり(とりわけ、標準的な慣例や‘一定の形式’の点でそれが目立つ)、一方、‘上流階級、エリートや前衛美術’は、‘より独創的で新規性に富む’ことを維持するため、‘念入りに仕上げられたコード’を採用する (Real 1996, 136)。同様に、以下のように示唆している。ナローキャスト(念入りに仕上げられた)コードは、より精妙である可能性を有している:ブロードキャスト(制限された)コードは、決まり文句のようなものになり易い。Jonathan Cullerは次のように、示唆している。‘文学は、固定したコードや理解のための明示的な規則になりそうな何物をも、その土台を崩し、揶揄し、脱出させる‥‥。文学作品は、それらを定義するコードの内では、横たわっていない’(Culler 1985, 105)。そのような立場が、ブロードキャスト・コードは表現の可能性を制限すると示唆する限り、この主張はウォーフ流と相通じるものがある。Whorfianism。そのような足場に潜むエリート主義の危険性は、証拠が検討中の特定のコードの文脈に沿って検証されていることを特に重要でものにすることにある。